約 576 件
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/437.html
十八史略 魏相 2011-01-22 13 54 08 | 十八史略 三年、丞相魏相薨。故事、上書者皆爲二封、署其一曰副、領尚書者、先發副封、所言不善、屏去不奏。自霍光薨後、相即白去副封、以防壅蔽。及爲相、好觀漢故事及便宜章奏、數條漢興以來便宜行事、及賢臣賈誼・鼂錯・董仲舒等所言、請施行之。敕掾吏案事郡國。及休告從家還至府、輒白四方異聞。或有逆賊風雨災異、郡不上、相輒奏言之。與御史大夫丙吉、同心輔政。上皆重之。 三年、丞相魏相薨(こう)ず。故事(こじ)に、上書は皆二封を為(つく)り、其の一に署して副と曰(い)い、尚書を領する者、先ず副封を発(ひら)き、言う所善からざれば、屏去(へいきょ)して奏せず。霍光薨(こう)じてより後、相、即ち白(もう)して副封を去り、以って壅蔽(ようへい)を防ぐ。相と為るに及んで、好んで漢の故事及び便宜の章奏(しょうそう)を観、数しば、漢興ってより以来の便宜の行事、及び賢臣賈誼(かぎ)・鼂錯(ちょうそ)・董仲舒(とうちゅうじょ)等の言う所を条し、請うて之を施行す。掾吏(えんり)に敕(ちょく)して、事を郡国に案ぜしむ。及び休告して家より還って府に至れば、輒(すなわ)ち四方の異聞を白(もう)さしむ。或いは逆賊風雨の災異にして、郡の上せざる有れば、相、輒ち之を奏言す。御史大夫丙吉と、心を同じうして政を輔(たす)く。上、皆之を重んず。 神爵三年(前59年)に丞相の魏相がみまかった。漢ではしきたりとして上書する者は、皆同文二通をつくり、一通に副と表書きした。取次ぎの役人が副の封書を見て、その内容が善くないと判断すれば握りつぶして奏上しないことになっていた。丞相の霍光が薨じたのち、魏相は早速宣帝に上奏して、副封の制を止めて障碍を取り払い、すべての上奏文が帝に伝わるようにあらためた。その魏相が丞相になると、漢室のしきたりや、便宜を図って出された上奏文をつぶさに調べ、漢が興って以来簡素化したことがらや賈誼・鼂錯・董仲舒等の建言を箇条書きにして裁可のうえ施行した。また役所の属官に命じて、郡国を巡察して不行き届きがないか調査させた。そして休暇明けで役所に戻った者には帰省中に見聞した、変事を報告させた。また地方で賊や災害で郡から上申しない事があると、魏相はいつもそれを奏上した。御史大夫の丙吉と心を合わせて政治を補佐したので帝はこの二人を重任した。 薨 貴人の死、天子を崩、大夫を卒、ほかを死といった。 屏去 退け抜き去る。 白 もうす。 壅蔽 ふさぎおおう。掾吏 下級官吏、属官。 勅 天子の命令。休告 休暇の申し出ること。 十八史略 宰相は細事をみずからせず 2011-01-25 14 58 33 | 十八史略 至是吉代爲丞相。吉尚寛大好禮讓。嘗出、逢羣鬭死傷、不問。逢牛喘。使問遂牛行幾里矣。或譏吉失問。吉曰、民鬭京兆所當禁、宰相不親細事、非所當問也。方春未可熱、恐牛暑故喘、此時氣失節。三公調陰陽、職當憂。人以爲知大體。 是(ここ)に至って、吉、代って丞相と為る。吉、寛大を尚(たっと)び、礼譲を好む。嘗て出でて、群闘死傷するに逢う、問わず。牛の喘(あえ)ぐに逢う。牛を遂(お)うて行くこと幾里ぞ、と問わしむ。或るひと、吉の問を失うを譏(そし)る。吉曰く、民の闘うは、京兆(けいちょう)の当(まさ)に禁ずべき所、宰相は細事を親(みずか)らせず、当に問うべき所に非ざるなり。春に方(あた)って未だ熱す可からず、恐らくは牛、暑きが故に喘ぐならん、此れ時気の節を失するなり。三公は陰陽を調う、職として当に憂うべし、と。人以って大体を知ると為す。 こうして魏相が亡くなると、丙吉(へいきつ)が代って丞相となった。丙吉は寛容で、礼儀が正しく人に遜(へりくだ)ることを好んだ。ある時、外出して数人が喧嘩をして死傷者まで出ている所に行きあわせたが、何も問わずに過ぎた。次に牛があえぎながら来るのに出あった。従者に「一体何里引かせて来たのか」と聞かせた。ある人が、丙吉の問いが的はずれではないかと非難したが、丙吉は「民が争うのは、京兆の長官が取り扱うべきことがらで、宰相が細かいことを自ら口出すことはない。今は春でまだ暑くなる時季ではないのに、牛はあえいでいる、これは時候が順当ではないのだ。三公というものは、陰陽を調えて民の利益を図るもので、当然宰相の職務として憂うべきことなのだ」と説明した。人々はこれを聞いて、丙吉は大きな筋道を心得ていると評した。 三公 前漢時代最高位にある、丞相、大司馬、御史大夫の三つの官職。 十八史略 韓延壽 2011-01-29 09 52 15 | 十八史略 五鳳元年、殺左馮翊韓延壽。延壽爲吏、好古教化。由潁川太守、入爲馮翊。民有昆弟相訟。延壽閉閤思過。訟者各悔、不復爭。郡中翕然相敕。恩信周徧、莫復有詞訟。民吏推其至誠、不忍欺紿。至是坐事棄市。百姓莫不流涕。 五鳳元年、左馮翊(さひょうよく) 韓延壽を殺す。延壽、吏となり、いにしえの教化を好む。潁川(えいせん)の太守より、入って馮翊となる。民に昆弟(こんてい)相訟うるもの有り。延壽、閤(こう)を閉じて過ちを思う。訴うる者、各々悔い、復た争わず。郡中翕然(きゅうぜん)として相敕(ちょくれい)す。恩信周徧(おんしんしゅうへん)にして、復た詞訟(ししょう)有ること莫(な)し。民吏、其の至誠を推(お)し、欺紿(きたい)するに忍びず。是(ここ)に至って、事に坐して棄市(きし)せらる。百姓(ひゃくせい) 流涕(りゅうてい)せざるは莫し。 五鳳元年(前57年)に左馮翊(さひょうよく) 韓延壽が殺された。延壽は官吏となってから、古の聖人が民を教化したやり方を踏襲したいと考えていた。潁川郡の太守から朝廷に入って左馮翊の長官になった。その民で兄弟が互いに訴え出た者があった。延壽は部屋に閉じこもり、自分に落度があったのではないかと思い悩んだ。訴えでた兄弟は互いに後悔して、二度と争わなくなった。郡中の民は相いましめ、励ましあった。延壽の恩情と信望はあまねく行きわたって、訴えを起こすこともなくなった。民も役人も延壽の至誠にうたれ、他人を騙すことをしなくなった。ところがこのたび、ある事件に連坐して死罪になり、市中にさらされた。これを見た市民は皆涙を流した。 昆弟 兄弟。 閤 小窓。 翕然 集まるさま。 敕 いましめ励ます。 欺紿 欺くこと。 十八史略 凡そ治道は、其の太甚(はなはだ)しき者を去るのみ 2011-02-05 15 58 51 | 十八史略 三年、丙吉薨。黄覇爲丞相。覇嘗爲潁川太守。吏民稱明不可欺。力教化後誅罰。許丞、老病聾。督郵白欲逐之。覇曰、許丞廉吏、雖老尚能拝起。重聽何傷。數易、送故迎新之費、及姦吏因縁、絶簿書盗財物、公私費耗甚多。所易新吏、又未必賢、或不如其故。徒相爲亂。凡治道去其太甚者耳。覇以外寛内明、得吏民心、治爲天下第一。至是代吉。覇材長於治民。及爲相、功名損治郡時。 三年、丙吉薨ず。黄覇丞相と為る。覇嘗て潁川の太守と為る。吏民、神明にして欺くべからずと称す。教化をつとめて誅罰を後にす。許丞(きょじょう)老いて聾を病む。督郵白(もう)して之を逐わんと欲す。覇曰く、許丞は廉吏なり、老いたりと雖も尚能く拝起す。重聴(ちょうちょう)すること何ぞ傷(いた)まん。数しばを易(か)えば、故を送り新を迎うるの費、及び姦吏因縁(いんえん)し、簿書を絶ち、財物を盗み、公私の費耗(ひこう)甚だ多し。易うる所の新吏、又未だ必ずしも賢ならず、或いは其の故に如かざらん。徒(いたずら)に相益(ま)して乱を為さんのみ。凡そ治道(ちどう)は、其の太甚(はなはだ)しき者を去るのみ、と。覇、外寛に内あきらかなるを以って、吏民の心を得、治、天下第一と為す。是(ここ)に至って吉に代る。覇の材、民を治むるに長ず。相と為るに及んで、功名、郡を治むるの時よりも損す。 郡の長官を補佐する役。 督郵 行政を監督する役目の官。 姦吏 不正をはたらく役人。 五鳳三年に、丞相の丙吉がなくなった。黄覇が代って丞相になった。黄覇もかって潁川の太守であったが、役人も民も覇が極めて聡明で、欺くことができないと評判しあった。民を教化することに力をそそぎ、誅罰を二の次にした。補佐官の許丞が老いて耳が遠くなったとして督郵が罷免したいと申し出た。黄覇は「許丞は廉潔な役人である。老いたりとはいえ、拝礼はとどこおりなく行えるし、同じ事を聞き直すからとて何の差し障りがあろう。たびたび補佐官を代えていたら、歓送の費用もかかる。悪い役人がドサクサ紛れに重要な帳簿を匿したり、官の財産を盗んだりするなど、公私の冗費がはなはだ多い。また交替させた役人が必ずしも有能とは限らず、前任者に及ばないこともあろう、ただたがいに混乱を益すだけだ。およそ民をおさめる道は、特にその甚だしいものを除きさればそれで良いのだ」と。黄覇は外は寛大、内は聡明であったので、官民こぞって信服し、その治績は天下第一と称せられた。 丙吉が亡くなって代って丞相になった黄覇だが実地に人民を治めることには長じていたが、丞相になってからからは、功績も、名声も郡を治めていたときよりも劣った。 十八史略 人生行樂耳 2011-02-12 09 35 21 | 十八史略 四年、太司農耿壽昌白、令邊郡皆築倉、穀賤増價而糴、以利農、穀貴減價而糶、以利民。名曰常平倉。 殺前光祿勲楊。廉潔無私。人上書告爲妖惡言。免爲庶人。家居、治産自娯。其友孫會宗戒之。報曰、過大行虧。當爲農夫以没世。田家作苦、歳時伏臘、烹羊炮羔、斗酒自勞。酒後耳熱、仰天拊缶、而呼嗚嗚。其詩曰、田彼南山、蕪穢不治。種一頃豆、落而爲萁。人生行樂耳、須富貴何時。淫荒無度、不知其不可也。人上書告、驕奢不悔。下廷尉案、得所與會宗書。帝見而惡之、以大逆無道要斬。 四年、太司農(たいしのう)耿壽昌(こうじゅしょう)白(もう)して、辺郡をしてみな倉を築かしめ、穀賤(いや)しければ価を増して糴(てき)し、以って民を利し、穀貴(たっと)ければあたいを減じて糶(ちょう)し、以って民を利す。名づけて常平倉と曰(い)う。 さきの光祿勲(こうろくくん)楊(よううん)を殺す。、廉潔にして私無し。人上書して、妖悪(ようあく)の言を為す、と告ぐ。免ぜられて庶人(しょじん)と為る。、家居(かきょ)し、産を治めて自(みずか)ら娯(たの)しむ。其の友、孫会宗これを戒む。、報じて曰く、過ち大にして行い虧(か)く。当(まさ)に農夫と為って以って世を没すべし、と。田家作苦(でんかさくく)し、歳時伏臘(ふくろう)、羊を烹(に)、羔(こひつじ)を炮(あぶ)り、斗酒自ら労(ねぎら)う。酒後耳熱し、天を仰ぎ缶(ふ)を拊(う)って、嗚嗚(おお)と呼ぶ。其の詩に曰く、彼(か)の南山に田つくるに、蕪穢(ぶあい)にして治まらず。一頃(いっけい)の豆を種(う)うれば、落ちて萁(き)と為る。人生行楽せんのみ、富貴を須(ま)つ何れの時ぞ、と。淫荒(いんこう)度無くして、其の不可なるを知らず。人、上書して告ぐ、、驕奢(きょうしゃ)にして悔いず、と。廷尉に下して案ぜしめ、会宗に与えし所の書を得たり。帝、見て之を悪(にく)み、大逆無道を以って要斬す。 五鳳四年(前54年)、太司農の耿寿昌が言上して、辺境の郡に倉庫を造らせ、穀物の相場が安い時には、値を高くして買い入れて農民を助け、相場が高いときには値を下げて売り出して、人びとを助ける事にした。これを常平倉と名づけた。 前の光祿勲の楊が殺された。楊は廉潔で公正無私であった。ところが、ある者が「楊は世を乱す怪しげな言葉を撒き散らしております」と上書したので罷免せられて庶民となった。それ以後、楊は家に居て財産をふやして、気ままに楽しんでいた。友人の孫会宗がそれを諌めると、楊は書をしたためて「私は過ちが多く、行いもよろしくありませんでした、農夫となって身を終えるのがふさわしいというものです。いったいに農家の作業は厳しく、夏の酷暑と真冬の酷寒の一日づつ、羊を煮、子羊を炙って酒を傾けてみずから労うのです。酒が進んで耳が熱くなったころ、天をあおぎ、缶(ほとぎ)を打って嗚嗚と大声で歌います。その詩とは 『彼の南山で耕せど、草がはびこり手に負えぬ。百畝の豆を植えてみたが、豆がらばかりが枯れ落ちる。ならばいっそ楽しまむ富貴を待つは無駄なこと。』 やがて際限もなく酔いしれてゆき、自分でそれが悪いこととも気づかないのです」と。ある者が「楊は驕りをほしいままにして悔いることがありません」と訴え出た。そこで帝は廷尉に下して取り調べさせたところ、孫会宗にあてた書簡を手にいれた。宣帝はこれを見て楊を悪み、大逆無道の者として腰斬りの刑に処した。 太司農 九卿の一、銭穀を司どる。 糴・糶 かいよね・うりよね 光祿勲 九卿の一、宮中に宿衛する。 虧 欠に同じ。 伏臘 伏は真夏の酷暑の日、臘は十二月の異称とも、酷寒の日。 缶 ほとぎ、酒や水を入れる土器、かめ。 南山 終南山、朝廷の比喩。 蕪穢 土地が荒れていること、朝廷の群臣の比喩。 十八史略 2011-02-15 13 02 17 | 十八史略 甘露元年、公卿奏、京兆尹張敞、之黨友。不宜處位。上惜敞材、寝其奏。敞使掾絮舜有所案驗。舜私歸曰、五日京兆耳、安能復案事。敞聞舜語、即収繋獄、竟致其死。後爲舜家所告。敞上書、從闕下亡命歳餘、京師枹鼓數警。上思敞能、復召用之。 甘露元年、公卿(こうけい)奏す、京兆の尹(いん)張敞(ちょうしょう)はの党友なり。宜しく位に処(お)るべからず、と。上、敞の材を惜しみ、其の奏を寝(や)む。敞、掾(えん)の絮舜(じょしゅん)をして案験する所有らしむ。舜、私に帰って曰く、五日(ごじつ)の京兆のみ、安(いづ)くんぞ能(よ)く復(また)事を案ぜん、と。敞、舜の語を聞き、即ち収めて獄に繋ぎ、竟(つい)に其れを死に致す。後、舜の家の告ぐる所と為る。敞、上書して、闕下(けっか)より亡命すること歳余、京師、枹鼓(ふこ)数しば警(いまし)む。上、敞の能を思い、復た召して之を用う。 甘露元年(前53年)に三公九卿が「京兆の長官、張敞は楊の一党であります。その職にとどまることは宜しくありません」と上奏した。宣帝は、張敞の才能を惜しんで、その上奏を取り上げなかった。その後、属官の絮舜という者に命じてある事件を取り調べさせた。絮舜は勝手に家に帰ってしまった。「どうせあと五日の長官さまだ、調査などしておられようか」と人に言った。その言葉が張敞の耳に入ったから、すぐさま捕えられ獄に繋がれついに死刑に処された。その後絮舜の家人が訴えでると、敞は辞職の文書を上(たてまつ)ったうえで朝廷から一年余り姿をくらました。 その間、都では非常を警告する太鼓のばち音がしばしば聞かれるようになった。帝は改めて張敞の有能さを思い知って、呼び戻して任用した。 寝 止める、握りつぶす。 掾 属官。 闕下 闕は宮城の門、朝廷のこと。 枹鼓 枹は太鼓のばち。 十八史略 股肱の美を思い、麒麟閣に図画す 2011-02-19 12 14 26 | 十八史略 匈奴亂、五單于爭立。呼韓邪單于上書、願欵塞稱藩臣。甘露三年、来朝。詔以客禮待之、位諸侯王上。 上、戎狄賓服、思股肱之美、乃圖畫其人於麒麟閣。惟霍光不名、曰大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏。其次張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武、凡十一人。皆有功。知名當世。 匈奴乱れ、五単于立つを争う。呼韓邪(こかんや)単于、書を上(たてまつ)り、願わくは塞(さい)を欵(たた)いて藩臣(はんしん)と称せん、と。甘露三年、来朝。詔(みことのり)して客礼を以って之を待ち、諸侯王の上に位いせしむ。 上(しょう) 戎狄(じゅうてき)賓服(ひんぷく)するを以って、股肱の美を思い、乃ち其の人を麒麟閣に図画(ずが)す。惟だ霍光のみは名いわずして、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と曰う。其の次に張安世・韓増・趙充國・魏相(ぎしょう)・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之(しょうぼうし)・蘇武、凡(あわ)せて十一人。皆功徳(こうとく)有り。名を当世に知らる。 匈奴が乱れ、五人の君主が争い立った。その中の呼韓邪単于が書をたてまつって、漢のとりでの門をたたいて、臣下になりたい、と願い出た。そして甘露三年(前51年)に来朝した。宣帝はみことのりを下して賓客の礼でもてなし、諸侯,諸王より上席に位いさせた。 帝は戎狄が来朝し臣従するようになったのは、側近の補佐がすぐれているからと考えて、その功を後世にのこすために麒麟閣に肖像と名を描かせた。ただ霍光だけは名を書かず、大司馬・大將軍・博陸侯、姓霍氏と記した。次いで張安世・韓増・趙充國・魏相・丙吉・杜延年・劉・梁丘賀・蕭望之・蘇武に至るまであわせて十一人、皆功績徳望が高く、名を知られた者たちであった。 藩臣 藩はかきね、まがき。天子を守る垣根になるの意。 麒麟閣 未央宮の中にある https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/90 十八史略 2011-02-22 17 36 00 | 十八史略 十八史略 宣帝崩ず。 帝在位、改元者七、曰本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍。凡二十五年。崩。葬杜陵。帝興於閭閻、知民事之艱難、精爲治。樞機周密。品式備具。拜刺史・守・相、輒親見問。常曰、民所以安其田里、而無歎息愁恨之聲者、政平訴理也。與我共此者。其惟良二千石乎。以爲太守吏民之本。數變易、則民不安。故二千石有治理效、輒以璽書勉、秩賜金。公卿缺、則選諸所表、以次用之。漢世良吏、於是爲盛。信賞必罰、綜核名實。政事・文學・法理之士、咸精其能、吏稱其職、民安其業。遭値匈奴衰亂、推亡固存、信威北夷。單于慕義、稽首稱藩。功光祖宗、業埀後裔。可謂中興高宗・周宣矣。太子即位。是爲孝元皇帝。 帝、位に在り、改元する者(こと)七。本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍と曰(い)う。凡(すべ)て二十五年。崩ず。杜陵(とりょう)に葬る。帝、閭閻(りょえん)より興り、民事の艱難を知り、精を励まし治を為す。枢機周密(すうきしゅうみつ)にして、品式(ひんしき)備具(びぐ)す。刺史・守・相を拝するとき、輒(すなわ)ち親しく見て問う。常(かつ)て曰く、民の其の田里に安んじて、歎息愁恨の声無き所以の者は、政(まつりごと)平らかに、訟(うったえ)理(おさ)まればなり。我と此を共にする者は、其れ惟(ただ)良二千石(せき)か、と。以為(おも)えらく、太守は吏民の本なり。数しば変易(へんえき)すれば、則ち民安んぜず、と。故に二千石、治理の効有れば、輒ち璽書(じしょ)を以て勉励し、秩を増し金を賜う。公卿(こうけい)欠くれば、則ち諸々の表する所を選び、次(じ)を以て之を用う。漢の世の良吏、是に於いて盛んなりと為す。信賞必罰、名実を綜核す。政事・文学・法理の士、咸(みな)其の能を精(くわ)しくし、吏は其の職に称(かな)い、民は其の業に安んず。匈奴の衰乱に遭値(そうち)し、亡を推(お)し存を固くし、威を北夷(ほくい)に信(の)ぶ。単于、義を慕い、稽首(けいしゅ)して藩(はん)と称す。功は祖宗(そそう)に光り、業は後裔に垂(た)る。中興、徳を高宗・周宣に(ひと)しうすと謂う可し。太子、位に即く。是を孝元皇帝と為す。 閭閻 共に村の門、民間の意。 枢機 重要なところ、枢は戸の心棒、機は弩弓の弾き。 周密 行き届くこと。品式 品章程式 規則と方式。 刺史 地方監察官。 守 郡の行政官。 常 嘗てと同じ。 良二千石 二千石は守・相の俸禄、善良な地方長官の意。(我が国で知事を良二千石ということがある) 璽書 璽は玉璽、天子の印章が捺してある文書。 綜核 綜はくくる、核はあきらかにすること。 遭値 共に出会う意。 信 伸びる、伸ばす。 稽首 首が地に着くほど体を屈して拝すること。 祖宗 創業の祖と中興の祖。 高宗・周宣 殷の高宗と周の宣王 十八史略 徳を高宗・周宣に(ひと)しうすと謂う可し 2011-02-24 10 52 57 | 十八史略 前回のつづき 宣帝の在位中、年号を改めること七回、本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍がそれで二十五年間であった。崩御して長安の南、杜陵に葬った。宣帝は市井から見出されて立ち、人々の苦しみをよく知っていたので、力を尽くして政治を行った。重要な点は周到に、制度方式も整備した。刺史・守・相を任命するときはその都度、親しく会って政道について下問された。嘗て「人民がその村里に安心して生活し、ため息をついたり、愁いや恨み言をいわないのは、政治が公平で訴訟も正しく行われているからに相違ない。私と供にその任務を果たせるのは、そなたのような善良な地方官なのだよ」と言った。また太守はその郡の役人や人民の中心であるから、頻繁に交代させては人々が安心して生活ができないと考えて、治績をあげた地方官にはその都度詔書を送って励まし、あるいは知行を増したり、黄金を贈ったりした。そして朝廷の高官で欠員が生じた場合は、さきに表彰した者から選び順次挙げ用いた。かくて漢代の良吏は宣帝の治世に最も多く輩出したといわれる。宣帝は功ある者は必ず賞し、罪ある者は必ず罰し、評判と実像を総合して見極めるようにした。政治、学問、法律に携わる者はその長所を発揮し、役人はその地位にかなって、民が安心してその家業にいそしむことができた。 たまたま匈奴が衰え乱れ立った時期に出会い、すでに亡びようとしている国は倒し、存続すべき国は保護して、漢の威光を匈奴一帯に示し広めた。単于は宣帝の義を慕って頭を地に垂れて、みずから漢室を守る臣下と称するようになった。宣帝の功績は祖先にまでも光り輝き、大業は子々孫々までも伝えられるもので、漢の中興に於いてその徳は殷の高宗、周の宣王に並ぶべきものといえよう。 太子が位に即いた。これが孝元皇帝である。 十八史略 2011-03-01 11 10 21 | 十八史略 孝元皇帝名奭。初爲太子、柔仁好儒。見宣帝所用、多文法吏、以刑名縄下。嘗燕、從容言、陛下持刑太深。宜用儒生。宣帝作色曰、漢家自有制度。本以覇王道雜之。奈何純任教、用周政乎。且俗儒不達時宜、好是古非今、使人眩於名實不知所守。何足委任。乃歎曰、亂我家者太子也。宣帝少、依太子母家許氏。許后以霍氏毒死。故弗忍廢太子。至是即位。 初元元年、立皇后王氏。 孝元皇帝名は奭(せき)。初め太子たりとき、柔仁(じゅうじん)にして儒を好む。宣帝の用うる所を見るに、文法の吏多く、刑名を以って下(しも)を縄(ただ)す。嘗て燕(えん)するとき、従容として言う、陛下刑を持すること太(はなは)だ深し。宜しく儒生を用うべし、と。宣帝色を作(な)して曰く、漢家自から制度あり。本より覇王の道を以って之に雑(まじ)う。奈何(いかん)ぞ純(もっぱ)ら徳教に任じて、周の政を用いんや。且つ俗儒は時宜に達せずして、好んで古を是とし今を非とし、人をして名実に眩(げん)して守る所を知らざらしむ。何ぞ委任するに足らんや、と。乃(すなわ)ち歎じて曰く、我が家を乱る者は太子なり、と。 宣帝少(わか)きとき、太子の母家の許氏に依る。許后、霍氏の毒を以って死す。故に太子を廃するに忍びざりしなり。是(ここ)に至って位に即く。 初元元年、皇后王氏立つ。 孝元皇帝(元帝)は名を奭という。太子であった時から、温和柔順で仁愛に富み、儒学を好んだ。宣帝の用いる者を見ると、司法に関与する役人が多く、刑名の法に基づいて臣下を糺してきた。ある時、酒宴の席上で、おもむろに申し上げた。「陛下は大変仕置きを厳しくなさっておいでですが、聖人の道を説く儒生を登用されてはいかがでしょうか」と。宣帝は顔色を変えて「漢家には漢家の制度がある、それは覇道と王道を交えもちいている。道徳の教化に頼る周代の政治に倣うことがあろうか。それに儒者どもは時勢の変化について行けず、昔を良しとし、今を悪いと決めつける、建前と実状とについて人を惑わし何に従い何を守るべきかを知らせない。そんな者に政治を委ねることなど出来ようか」さらに歎息して「わが漢家を衰え乱す者はおそらく太子であろう」と言った。 宣帝は若い頃、太子の母(宣帝の后)の実家の許氏に身を寄せていた。ところが許后は霍氏によって毒殺されたので不憫に思い廃位に踏み切れなかった。かくて宣帝が崩御すると太子が位に即いた。 初元元年(前48年)、王氏を立てて皇后とした。 文法 法律。 刑名 刑は形に通じ、行い。名は言で言行。 言行の一致を要求し、それにより賞罰することを政治の根幹とする法家の学説。 燕 宴に同じ。 覇王 力で統治するのが覇道、徳で統治するのが王道。 十八史略 蕭望之・周堪・劉更生を獄に下し、庶人と為す。 2011-03-03 09 34 11 | 十八史略 二年、下蕭望之・周堪及宗正劉更生獄皆免爲庶人。時吏高以外屬領尚書事。望之・堪副之。二人帝師傅。數言治亂、陳正事、選更生給事中、與侍中金敞、竝拾遺左右。四人同心謀議。史高充位而已。由是與望之有隙。 二年、蕭望之(しょうぼうし)・周堪(しゅうかん)及び宗正(そうせい)の劉更生(りゅうこうせい)を獄に下し、皆免じて庶人と為す。時に史高(しこう)、外属を以って尚書の事を領す。望之・堪、之に副たり。二人は帝の師傅(しふ)なり。数しば治乱を言い、正事を陳(ちん)し、更生を給事中(きゅうじちゅう)に選び、侍中(じちゅう)の金敞(きんしょう)と、並びに左右に拾遺(しゅうい)せしむ。四人心を同じうして謀議す。史高は位に充つるのみ。是に由(よ)って望之と隙(げき)有り。 初元二年(前47年)に蕭望之と周堪および宗正の劉更生を獄吏におくり、罷免したうえで身分を庶人に落とした。当時、史高が外戚として尚書の事務を執っていた。蕭望之と周堪は共に副官となっていた。二人は元帝の師であり、守り役でもあったので、しばしば国家の治乱について言上し、正しいことを陳(の)べ、劉更生を給事中の官に推薦し、侍中の金敞と共に、帝の左右にあって過ちを正させた。この四人が心を一つにして何事をも相談したから、史高は名前だけ連ねているだけであった。このため史高と望之とは仲が悪かった。 宗正 皇族の諸事を掌る官。 尚書事 内閣の事務を掌る。給事中 上奏の取次ぎ及び顧問役。 拾遺 遺失したものを拾う。天子の見落としたものを拾う、つまり天子を諫言すること。 十八史略 宦官石顯台頭す 2011-03-05 11 32 46 | 十八史略 中書令弘恭、僕射石顯、自宣帝時、久典樞機。及帝即位多疾。以顯中人無外黨、遂委以政事、事無大小、因顯白欠。貴幸傾朝、百僚皆敬事顯。顯巧慧習事、能深得人主微指。内深賊持詭辯、以中傷人、與高表裏。望之等患外戚許・史放從、又疾恭・顯擅權、建白。以爲、中書政本、國家樞機。宜以通明公正處之。武帝遊宴後庭、故用宦者。非古制也。宜罷中書宦官、應古之不近刑人之義。上不能從。 中書令の弘恭、僕射(ぼくや)の石顯(せきけん)は宣帝の時より、久しく枢機を典(つかさど)る。帝、位に即くに及び多疾なり。顕の中人にして外党無きを以って遂に委するに政事を以ってし、事大小と無く、顕に因(よ)って白決(はっけつ)す。貴幸、朝(ちょう)を傾け、百僚皆顕に敬事す。顕、巧慧(こうけい)にして事に習い、能く人主の微指を探得(たんとく)す。内深賊(しんぞく)にして詭弁を持し、以って人を中傷し、高と表裏す。望之等、外戚許・史の放縦(ほうしょう)なるを患い、又恭・顕の権を擅(ほしいまま)にするを疾(にく)んで、建白す。以為(おも)えらく、中書は政の本(もと)、国家の枢機なり。宜しく通明公正を以って之に処(お)くべし。武帝は後庭に遊宴す、故に宦者(かんじゃ)を用う。古制に非ざるなり。宜しく中書の宦官を罷(や)め、古の刑人を近づけざりしの義に応ずべし、と。上、従う能わず。 中書令の弘恭と僕射の石顕は宣帝の時から久しく政治の枢要にあった。宣帝は即位以来病気がちであった。ところが石顕は宦官で一族係累がいないというので気を許して、次第に政治を任せ、事の大小を問わず全て石顕の奏上によって決するようになった。帝の恩寵は石顕の一身に集まり、百官みな顕を敬い仕えた。顕は知恵才覚に富み抜け目がなく、よく帝の微かな意中を察することができた。しかし内心は陰険で詭弁を弄して人を貶(おとし)めた。石顕と史高は宮中と朝廷と表裏一体となって気脈を通じていた。蕭望之らは、外戚の許延寿や史高の放縦をうれい、弘恭と石顕が権力を専(もっぱ)らにするのを悪(にく)んで、帝に建白書をたてまつって「思いますに、中書は政治の根本で、国家の枢機を扱っています時勢に明らかで公正な人物がその官に就くべきです。武帝はよく後宮で遊宴をされておられましたので、宦官を用いられましたが、これは古の制ではありません。どうか中書にいる宦官を罷免して古の帝が宮刑を受けた者を近づけられなかった道理に適うようになさってください」と。しかし元帝はこの措置をとることができなかった。 中書令 宮中の書記を総括する。 僕射 尚書僕射、宰相の一。 中人 宮中の宦官、この時代から権力に関わってきた。 外党 宮中外の徒党。 白決 白は申し上げる、奏上して裁決すること。 十八史略 蕭望之鴆(ちん)を飲んで自殺す。 2011-03-08 12 00 51 | 十八史略 恭・顯奏。望之・堪・更生、朋黨相稱譽、數譖詐大臣、毀離親戚、欲以專檀權勢、爲不忠。誣上不道。請謁者召致廷尉。時上初即位、不省召致廷尉爲送獄、可其奏。後上召堪・更生。曰、繋獄。上大驚曰、非但廷尉問邪。令出視事。恭・顯使高説上、竟罷免。後上復徴堪・更生爲中郎、且欲以望之爲相。恭・顯・許・史皆側目。知望之素高節不詘辱詘、建白。望之不悔過服罪。深懐怨望、自以託師傅、終不坐。非頗屈望之於獄、塞其怏怏心、則聖朝無以施恩厚。上曰、太傅素剛。安肯就吏。顯等曰、人命至重。望之所坐、語言薄過。必無所憂。令謁者召望之、因急發執金吾軍騎、馳圍其第。望之飲鴆自殺。 恭・顯奏す。望之・堪(かん)・更生、朋党相称誉(しょうよ)し、数しば大臣を譖詐(しんさ)し、親戚を毀離(きり)し、以って専ら権勢を檀(ほしいまま)にして、 不忠を為さんと欲す。上(しょう)を誣(し)うるは不道なり。請う謁者をして召して廷尉に致さしめん、と。時に上、初めて位に即き、召して廷尉に致すとは獄に送ることたるを省(せい)せずして、其の奏を可とす。後に上、堪・更生を召す。曰く、獄に繋ぐと。上、大いに驚いて曰く、但だ廷尉の問うのみに非ざるか、と。出でて事を視しむ。恭・顯、高をして上に説かしめ、畢(つい)に罷免す。後に上復た堪・更生を徴(め)して中郎と為し、且つ望之を以って相と為さんと欲す。恭・顯・許・史皆目を側(そばだ)つ。望之の素(もと)より高節にして詘辱(くつじょく)せられざるを知って、建白す。望之、過を悔いて罪に服せず。深く怨望(えんぼう)を懐いて、自ら以って師傅(しふ)に託し、終に坐せられずとなす。頗る望之を獄に屈して、其の怏怏(おうおう)の心を塞ぐに非ずんば、則ち聖朝以って恩厚を施す無からん、と。上の曰く、太傅もとより剛なり。安(いず)くんぞ肯(あえ)て吏に就(つ)かんや、と。顕等曰く、人命は至重なり、望之の坐する所は、語言の薄過(はくか)なり、必ず憂うる所無からん、と。謁者をして望之を召さしめ、因(よ)って急に執金吾(しっきんご)の軍騎を発し、馳せてその第(てい)を囲む。望之、鴆(ちん)を飲んで自殺す。 十八史略 蕭望之鴆(ちん)を飲んで自殺す(通釈) 2011-03-10 09 00 23 | 十八史略 弘恭・石顕の二人が帝に「蕭望之・周堪・劉更生は徒党を組んで互いに誉めあい、度たび大臣を讒訴(ざんそ)し、皇族を仲違いさせて自分たちで思うままにして不忠をはたらこうとしています。陛下をあざむくことは道にはずれたことであります、謁者に命じて廷尉に引き渡させたく存じます」と奏上した。時に元帝は即位したばかりで、召し出して廷尉に引き渡すとは獄に送ることとは気づかず、その奏上を裁可した。後に帝が周堪と更生とを召し出そうとしたところ、牢につながれているとの返事に大いに驚いて「廷尉が取り調べるだけではないのか」と言った。すぐに牢から出して政務を執らせた。しかし弘恭と石顕の二人は史高を通じて帝を説得して、とうとう三人を罷免してしまった。その後元帝は再び周堪と劉更生を召して中郎とし、さらに蕭望之を宰相にしようとした。弘恭・石顕・許延寿・史高の四人は横目で見合って危ぶんだ。そして望之が生来気骨が高く、屈辱に耐えられない質であることを知ってこう建議した「望之は過ちを悔い罪に服そうとはせず深く怨みを抱いており、自分は帝の師傅であったことを頼みに結局罰せられないと思っているようです。少しく獄に留め置き不平不満を懲らさねば、聖朝の恩沢をあまねく施すとは申せません」元帝は「太傅蕭望之はもとより剛直な性質である。どうして獄吏の手にかかることを承服しようぞ」と。石顕等は「人の命はきわめて重く、望之の罪は言葉の上の僅かな過失です、ご心配には及びません」と、そこで取り次ぎ役を遣って望之を召させ、一方執金吾の兵を出し、蕭望之の邸をとり囲んだ。望之ははたして鴆毒を飲んで自殺した。 譖詐 かげ口を言ってそしる。 毀離 仲違いさせる。 誣うる あざむく。 謁者 客の取次ぎをする者。 出でて事を視しむ 獄舎から出して政務を執らせた。 中郎 宿衛の事を掌る官。 詘辱 屈辱に同じ。 師傅 もり役。 怏怏 不平の気持ち。 執金吾 宮門警護 金は武器、吾は禦(ふさ)ぐ。鴆 毒鳥、羽を浸した酒を飲むと死ぬという。 十八史略 我が道を得て身を亡ぼさん者は、京生ならん 2011-03-12 17 25 48 | 十八史略 先ず東北地方太平洋沖地震に罹災された方と不幸にして亡くなられた方に哀悼の意をささげます。 弘恭死。石顯爲中書令。 五年、匈奴郅支單于漢使者、西走康居。 永光元年、匈奴呼韓邪單于北歸庭。 建昭二年、殺魏郡太守京房。房學易於焦延壽。延壽嘗曰、得我道以亡身者、京生也。爲郎屢言災異有驗。嘗宴見言事、意指石顯。顯奏出之、尋徴下獄、棄市。 弘恭死す。石顕中書令と為る。 五年、匈奴の郅支(しっし)単于、漢の使者を殺して、西のかた康居に走る。 永光元年、匈奴の呼韓邪(こかんや)単于、北のかた庭(てい)に帰る。 建昭二年、魏郡の太守京房(けいぼう)を殺す。房、易を焦延壽(しょうえんじゅ)に学ぶ。延壽嘗て曰く、我が道を得て以って身を亡ぼさん者は、京生ならん、と。郎と為り、しばしば災異を言いて験有り。嘗て宴見(えんけん)して事を言い、意、石顕を指す。顕奏して之を出だし、尋(つ)いで徴(め)して獄に下し、棄市す。 弘恭が死んで、代わって石顕が中書令になった。 初元五年(前44年) 匈奴の郅支単于が漢の使者を殺して、西方の康居に逃げた。 永光元年、匈奴の呼韓邪単于が北方の自分の領土に帰った。 建昭二年、魏郡の太守京房を処刑した。京房は、焦延壽から易を学んだが、ある時延壽が「わたしの易学を体得して、そのために身を亡ぼす者がいたとすれば、それは京房であろう」ともらした。京房は郎中になり、数しば天災地異を言い当てた。ある時、元帝の暇な折りに謁見して、或ることを予言したが、暗に石顕をほのめかす意味が込められていた。石顕は奏上して朝廷から追い出し、間もなく呼び出して投獄したのち、処刑して市中にさらした。 康居 西域の国の名。 郎 郎中、天子近侍の官、宴見 宴はくつろぐ。棄市 殺して屍を市中にさらすこと。 十八史略 牢か石か五鹿の客か 2011-03-15 10 07 39 | 十八史略 顯威權日盛。與中書僕射牢梁、少府五鹿充宗、結爲黨友。諸附倚者得寵位。民歌之曰、牢邪石邪、五鹿客邪、印何纍纍、綬若若邪。 三年、西域副校尉陳湯、矯制發兵、與都護甘延壽、襲撃郅支單于於康居斬之。四年春、傳首至京。縣藁街十日。 顕の威権日に盛んなり。中書僕射の牢梁(ろうりょう)、少府の五鹿充宗(ごろくじゅうそう)と結んで党友となる。諸々の附倚(ふい)する者寵位を得たり。民之を歌いて曰く、 牢か石か五鹿の客か、印何ぞ累累(るいるい)たる、綬(じゅ)若若(じゃくじゃく)たるか、 三年、西域の副校尉陳湯(ちんとう)、制と矯(いつわ)り兵を発して、都護の甘延壽と郅支(しっし)単于を康居に襲撃して之を斬る。四年春、首を伝えて京(けい)に至る。藁街(こうがい)に縣くること十日なり。 石顕の威光権勢は日増しに盛んになり、中書僕射の牢梁と少府の五鹿充宗らと徒党を組んだ。そしてこれらにおもねり従う者が位を得た。人々はこの事を歌にして「牢か石か五鹿の客か、印は累るい、綬は長ながと」と歌った。 建昭三年、西域の副校尉の陳湯が勅命と偽って兵を動かし、都護の甘延寿とともに康居にいた郅支単于を襲撃して之を斬り殺した。翌年の春、その首を都に送り匈奴の居留区に十日間さらした。 少府 宮中の衣服・宝物・食事をつかさどる。 印 官印 綬 印のひも 十八史略 王昭君、呼韓邪單于に降嫁す 2011-03-17 10 11 01 | 十八史略 竟寧元年、呼韓邪單于來朝、願婿漢。以後宮王嬙字昭君賜之。 帝崩。在位十六年。改元者四。初元・永光・建昭・竟寧。帝雖喜儒術、得韋玄成・匡衡爲相、無相業、帝徒優游不斷、漢業衰焉。太子即位。是爲孝成皇帝。 竟寧(きょうねい)元年、呼韓邪(こかんや)単于来朝し、願わくは漢に婿(むこ)たらん、と。後宮の王嬙(おうしょう)字は昭君を以って之に賜う。 帝崩ず。在位十六年。改元する者(こと)四。初元・永光・建昭・竟寧。帝儒術(じゅじゅつ)を喜び、韋玄成・匡衡を得て相と為すと雖も、相業なく、帝徒(いたずら)に優游不断(ゆうゆうふだん)にして、漢業衰う。太子位に即く。是を孝成皇帝となす。 竟寧元年(前33年) 呼韓邪単于が来朝して、漢室の女婿(むすめむこ)になりたいと願いでた。そこで後宮の王嬙、字は昭君を皇女として賜った。 この年元帝が亡くなった。在位十六年。改元すること四。初元・永光・建昭・竟寧である。元帝は儒者の道を好み、韋玄成・匡衡を丞相にしたが、この二人は丞相としての功績はなく、帝もきわめて優柔不断であった。そのため漢の帝業は衰退した。太子が即位した。これを孝成皇帝(成帝)という。 王昭君については有名な伝説があるが、ここでは触れない。李白の五言絶句と 我が朝の凌雲集より七言絶句を紹介する。 王昭君 李白 昭君玉鞍(ぎょくあん)を払い 馬に上って紅頬(こうきょう)啼く 今日(こんにち)漢宮の人 明朝胡地(こち)の妾(しょう) 王昭君 滋野貞主(しげののさだぬし) 朔雪(さくせつ)翩翩として沙漠暗く 辺霜惨烈として隴頭(ろうとう)寒し 行く行く常に望む長安の日 曙色(しょしょく)東方看るに忍びず 朔雪 北方から吹き付ける雪。 隴頭 長安の西方隴山のほとり 十八史略 黄霧(こうむ)四(よも)に塞がる。 2011-03-19 11 57 45 | 十八史略 孝成皇帝名驁。母王氏、生帝於甲觀。少好經書。其後幸酒樂燕樂。元帝時爲太子幾廢。頼史丹伏青蒲、涕泣諌止。至是即位、尊王氏爲皇太后、以元舅王鳳、爲大司馬大將軍、領尚書事。 建始元年、石顯以罪免歸、道死。 封舅王崇爲安成侯、賜譚・商・立・根・逢時爵關内侯。黄霧四塞。 孝成皇帝名は驁(ごう)。母は王氏、帝を甲観に生む。少(わか)き時経書(けいしょ)を好む。その後、酒楽(しゅがく)を幸(こう)して燕楽(えんらく)す。元帝の時太子と為り、幾(ほとん)ど廃せられんとす。史丹、青蒲(せいほ)に伏し、涕泣(ていきゅう)して諌むるに頼(よ)って止む。是(ここ)に至って位に即き、王氏を尊んで皇太后と為し、元舅(げんきゅう)の王鳳を以って、大司馬大将軍と為し、尚書の事を領せしむ。 建始元年、石顕罪を以って免ぜられて帰り、道に死す。 舅の王崇を封じて安成侯と為し、譚・商・立・根・逢時に爵関内侯を賜う。黄霧(こうむ)四(よも)に塞がる。 孝成皇帝名は驁といい、母は王氏で、成帝を太子の宮殿の甲観で生んだ。若い時は経書を好んだが、その後酒と音楽に気が向き、酒宴に耽るようになった。元帝の時太子に立ったが、ほとんど廃位されようとした。史丹という者が元帝の寝室にまで入り、玉座のそばにひれ伏して泣いて諌めたので廃せられずに済んだ。元帝がなくなって即位するや、母の王氏を皇太后とし、母の長兄の王鳳を大司馬大将軍に任じ尚書の政務をまかせた。 建始元年に石顕が罪によって罷免されて郷里に帰ったが、途中で死んだ。 皇太后の弟の王崇を安成侯とし、同族の王譚・王商・王立・王根・王逢時の五人に関内侯の爵位を授けた。この日、不吉な黄色の霧が四方にたちこめた。 経書 四書五経の類。 燕楽 宴楽。 青蒲 青い蒲で織った敷物。 元舅 母方の伯父で一番年長者 十八史略 趙飛燕皇后に立つ 2011-03-22 12 02 55 | 十八史略 19日と同じものを入れてしまったので再送しました。 河平二年、悉封諸舅爲列侯。 陽朔三年、王鳳卒。王音爲大司馬、王譚領城門兵。 鴻嘉四年、王譚卒、王商領城門兵。 永始元年、封太后弟之子莽、爲新都侯。 立皇后趙氏。名飛燕。女弟合爲婕。 二年、王音卒、王商爲大司馬。 河平二年、悉(ことごと)く諸舅(しょきゅう)を封じて列侯と為す。 陽朔(ようさく)三年、王鳳卒す。王音(おういん)大司馬と為り、王譚(おうたん)城門の兵を領す。 鴻嘉(こうか)四年、王譚卒し、王商城門の兵を領す。 永始元年、太后の弟の子の莽(もう)を封じて、新都侯と為す。 皇后趙氏を立つ。名は飛燕。女弟の合徳を婕(しょうよ)と為す。 二年、王音卒し、王商大司馬と為る。 河平二年(前27年)皇太后の兄弟をすべて列侯に封じた。陽朔三年(前22年)王鳳が死んだ。王音が大司馬となり、王譚が宮城の衛兵を統括した。 鴻嘉四年(前17年)、王譚が死に、王商が代わって衛兵を統括した。 永始元年(前16年)、太后の弟の子王莽を新都侯に封じた。 趙飛燕を皇后に立てた。妹の合徳も婕として宮中にいれた。 二年、王音が死に、王商が大司馬となった。 女弟 妹のこと。 婕 高位の女官。 十八史略 願わくはその景を察せよ 2011-03-24 09 06 58 | 十八史略 故南昌尉梅福、上書曰、方今君命犯、而主威奪。外戚之權、日以盛。陛下不察其形、願察其景。建始以來、日食・地震、三倍春秋、水災無與比數。陰盛陽微、金鐡爲飛。此何景也。書上。不報。 四年、王商卒、王根爲大司馬。 故(もと)の南昌の尉、梅福、上書して曰く、方今(ほうこん)君命犯されて、主威奪わる。外戚の権、日に以って益々盛んなり。陛下其の形を察せずんば、願わくは其の景(かげ)を察せよ。建始以来、日食・地震、春秋に三倍し、水災与(とも)に比数(ひすう)する無し。陰盛んにして陽微に、金鉄ために飛ぶ。此れ何の景(かげ)ぞやと。書上(たてまつ)る。報ぜず。 四年、王商卒し、王根大司馬と為る。 もとの南昌の尉の梅福が帝に書をたてまつってこう言った「昨今帝の命令は犯されて、君主の威厳が損なわれております。そして外戚の権勢は日増しに盛んになってきております。陛下にはその実態を察しておられないならば、どうかそれに起因する天変地異を察知してください。建始以来起こった日蝕や地震は春秋の世に三倍しており、水害などは比べようもありません。陰の気が盛んで陽の気が衰え、鉄が飛び散ったこともありました。これは一体何の現れでありましょう」と。書は上呈されたが、何の沙汰もなかった。 永始四年、王商が死んで王根が大司馬となった。 金鉄ために飛ぶ 鉄を鋳込んだとき空高く飛び散ったことがあった。 十八史略 張禹王氏の怨む所となるを恐る 2011-03-26 10 32 46 | 十八史略 安昌侯張禹、以帝師傅、毎有大政、必與定議。時吏民多上書言、災異王氏専政所致。上至禹第、辟左右、親以示禹。禹自見年老子孫弱、恐爲王氏所怨、謂上曰、春秋日食・地震、或爲諸侯相殺、夷狄侵中國。災變之意、深遠難見。故聖人罕言命、不語怪神。性與天道、自子貢之屬不得聞。何況淺見鄙儒之所信。新學小生、亂道誤人。宜無信用。上雅信愛禹。由是不疑王氏。 安昌侯張禹(ちょうう)、帝の師傅(しふ)を以って大政(たいせい)ある毎に、必ず定議に与(あづか)る。時に吏民多く上書して言う、災異は王氏専政の致すところなりと。上(しょう)禹の第(てい)に至って左右を退け、親(みずか)ら以って禹に示す。禹自ら年老い子孫弱きを見て、王氏の怨むる所と為るを恐れ、上に謂って曰く、春秋の日食・地震は、或いは諸侯あい殺し、夷狄中国を侵すが為ならん。災変の意、深遠にして見難し。故に聖人罕(まれ)に命を言い、怪神を語らず。性と天道とは、子貢の属よりして聞くを得ず。何ぞ況(いわん)や浅見鄙儒(せんけんひじゅ)の言う所ならんや。新学の小生、道を乱り人を誤る。宜しく信用するなかるべし、と。上、雅(もと)より禹を信愛す。是に由って王氏を疑わず。 安昌侯の張禹は帝の教導役ということで大事のある毎に評議に加わっていた。その頃、吏民からこういった天災地変は王氏一族の専横に起因するという訴えが多く出されていた。成帝は張禹の屋敷に行き、左右の者を遠ざけて、みずから上書を張禹に見せた。張禹は自分がすでに年老いて、子や孫もまだ非力であることを考えて、王氏に恨まれることを恐れて、帝に言った「春秋の日蝕や地震は諸侯が殺し合ったり、夷狄が中国を侵したためでありましょう。天災地変の理(ことわり)は深遠で測り難いものであります。故に聖人孔子も天命については滅多に口にせず、怪異や鬼神も語られなかったのです。人の本性と宇宙の道理については、子貢のような高弟でも聞くことができませんでした。まして浅学の儒者風情が言うことではございません。学問をはじめたばかりの青二才どもは道を乱し、人を誤らせます。信用なさらぬことです」と。帝はもとより禹を信愛していたので、王氏を疑わなかった。 第 邸に同じ。 罕言命 論語子罕篇(しかんへん)に「子罕(まれ)に利と命と仁とを言う」とある。 親 天子みずから。 雅 つねに、もとからの意 十八史略 朱雲、折檻す 2011-03-29 10 38 00 | 十八史略 龍逢・比干に従って、地下に遊ぶを得ば足れり 故槐里令朱雲、上書求見。願賜尚方斬馬劔、斷佞臣一人頭、以其餘。上問、誰也。對曰、安昌侯張禹。上大怒曰、小臣居下、廷辱師傅。罪死不赦。御史將雲下。雲攀殿檻。檻折。雲呼曰、臣得下從龍逢・比干、遊於地下足矣。未知聖朝如何耳。左將軍辛慶忌、叩頭流血爭之。上意乃解。及當治檻、上曰、勿易。因而輯之、以旌直臣。 故(もと)の槐里(かいり)の令、朱雲、上書して見(まみ)えんことを求む。願わくは尚方(しょうほう)の斬馬剱を賜り佞臣(ねいしん)一人の頭を断って、その余(よ)を励まさんと。上問う、誰ぞやと。対(こた)えて曰く、安昌侯張禹なりと。上、大いに怒って曰く、小臣下(しも)に居り、師傅(しふ)を廷辱(ていじょく)す。罪、死をも赦さず、と。御史、雲を将(ひき)いて下る。雲、殿檻(でんかん)を攀(よ)づ。檻折る。雲呼んで曰く、臣、しも龍逢・比干に従って、地下に遊ぶを得ば足れり。未だ聖朝の如何知らざるのみ、と。左将軍辛慶忌(しんけいき)、叩頭(こうとう)して血を流して之を争う。上の意乃(すなわ)ち解く。当(まさ)に檻を治むべきに及んで、上曰く、易(か)うること勿れ。因って之を輯(あつ)めて、以って直臣を旌(あらわ)せ、と。 もと槐里の県令であった朱雲が上書して拝謁を願い出でて言うには「願わくは、尚方(しょうほう)の斬馬剣を拝領して佞臣一人の首を刎ね、ほかの人達を励ましたと存じます」と。帝は「それは誰か」と問うと、「安昌侯張禹でございます」と答えた。帝は非常に怒って「小臣者が下賤の身でありながら朝廷でわが師傅を辱めたその罪は死んでも赦されぬ」御史が朱雲を引き立ててさがろうとしたが、朱雲は御殿の檻(てすり)にすがりついて、引きはがそうとすると檻が折れた。朱雲は大声で「臣は地下で龍逢・比干に従って遊ぶことができれば満足でございます、ただ朝廷の行く末が知れないのが気がかりでございます」と叫んだ。左将軍の辛慶忌(しんけいき)が頭を床に打ち付け、額に血を流しながら朱雲の助命を嘆願したので成帝も怒りを解いた。その後檻を修理する時になると、「とり易(か)えてはならぬ、木片を集めて元通りにして直諌の臣を表彰せよ」と命じた。 槐里 地名、峡西省にある。 尚方 御物を管理する役所。 檻 欄干。折檻の典拠になった。龍逢 関龍逢、夏の桀王の臣、王を諌めて殺された。比干は殷の紂王の叔父で胸を裂かれて殺された。 十八史略 王莽大司馬となり、成帝崩ず 2011-03-31 14 06 36 | 十八史略 綏和元年、王根病免、王莽爲大司馬。 二年、帝崩。在位二十六年、改元者七、曰建始・河平・陽朔・鴻嘉・永始・元延・綏和。帝有威儀。臨朝若神。然荒于酒色、政在外家。張禹・薛宣・翟方進、爲相、漢業愈衰焉。太子即位。是爲孝哀皇帝。 綏和(すいわ)元年、王根病んで免ぜられ、王莽大司馬と為る。 二年、帝崩ず。在位二十六年、改元すること七、 建始・河平・陽朔・鴻嘉・永始・元延・綏和と曰(い)う。帝、威儀有り。朝に臨んで神の若(ごと)し。然れども酒色に荒(すさ)み、政は外家(がいか)に在り。張禹・薛宣(せっせん)・翟方進(てきほうしん)相と為り、漢業愈々衰う。太子位に即く。是を孝哀皇帝(こうあいこうてい)と為す。 綏和元年(前8年)に王根が病気のため職を免ぜられ、王莽が大司馬になった。 綏和二年に成帝が崩御した。在位すること二十六年、改元すること七度、建始・河平・陽朔・鴻嘉・永始・元延・綏和である。成帝は威厳があり、朝廷に出られたときには神々しいほどであった。しかし酒色に溺れ、政治の実権は外戚の手に握られた。張禹・薛宣・翟方進が宰相になったが、漢室は益々衰えるばかりであった。太子が即位した。これが孝哀皇帝(哀帝)である 十八史略 哀帝 2011-04-02 08 26 41 | 十八史略 孝哀皇帝名欣。定陶恭王康之子、元帝之孫也。祖母傅氏、母丁氏。成帝無子。故立爲太子。至是即位。丁・傅用事罷大司馬莽就第。 建平元年、用夏賀良言。漢歴中衰。當更受天命、宜急改元易號。乃改元太初、更號陳聖劉太平皇帝。尋罷改元更號事、誅夏賀良等。 帝幸董賢。元壽元年、以賢爲大司馬。二年、帝崩。賢自殺。 帝在位七年、改元者二、曰建平・元壽。太皇太后、以王莽爲大司馬、領尚書事、迎中山王即位。是爲孝平皇帝。 孝哀皇帝名は欣。定陶恭王(ていとうきょうおう)康の子、元帝の孫なり。祖母は傅(ふ)氏、母は丁氏。成帝子無し。故に立てて太子と為す。是(ここ)に至って位に即く。丁・傅、事を用い、大司馬莽を罷(や)めて第(てい)に就(つ)かしむ。 建平元年、夏賀良(かがりょう)の言を用う。漢歴中ごろ衰う。当(まさ)に天命を更(あらた)め受くべく、宜しく急に元を改め号を易(か)うべし、と。乃(すな)ち太初と改元し、更に陳聖劉太平皇帝と号す。尋(つ)いで改元更号の事を罷(や)めて、夏賀良等を誅す。 帝、董賢を幸(こう)す。元壽元年、賢を以って大司馬と為す。二年、帝崩ず。賢自殺す。 帝、位に在ること七年、改元する者(こと)二、建平・元壽と曰う。太皇太后、王莽を以って大司馬と為し、尚書の事を領せしめ、中山王を迎えて位に即かしむ。是を孝平皇帝と為す。 孝哀皇帝名は欣といい、 定陶の恭王、康の子で、元帝の孫にあたる。祖母は傅氏、母は丁氏である。成帝に子がなかったので、立てて太子とした。帝が亡くなるに及んで位に即いた。丁氏・傅氏が政権を握り、王莽を罷免して自邸に帰らせた。 建平元年に夏賀良という者が、「漢の運気が衰えかけております。今改めて天命を受けるべく、年号を改め、帝号を変えられるのがよろしいと存じます」と言上した。そこで年号を太初と改元して、更に帝号を陳聖劉太平皇帝とあらためた。ところが一向に効果が無いとして改元、改号のことをとり止め、夏賀良等を誅殺した。 哀帝は董賢というものを寵愛し、元壽元年に、董賢を大司馬とした。二年に、哀帝が」崩御し、董賢は自殺した。 帝は位にあること七年、年号を改めること二度、即ち建平、元壽である。帝の没後、太皇太后(王氏)は、王莽を大司馬にして尚書のことを統括させた。また中山王を迎えて帝位に即かせた。これを孝平皇帝(平帝)という。 十八史略 平帝 2011-04-05 12 59 35 | 十八史略 孝平皇帝名箕子。後更名衎。中山孝王興之子、元帝孫也。哀帝崩、立爲嗣。太皇太后臨朝。大司馬莽秉政。百官總己以聽。元始元年、莽爲安漢公。 四年、聘莽女爲皇后、加安漢公號宰衡、位諸侯王上。 五年、太師孔光卒。成哀以來、光等爲三公、養成漢禍、諂佞成風。上書頌莽者、至四十八萬人。加莽九錫。 孝平皇帝名は箕子(きし)。後に名を衎(かん)と改む。中山(ちゅうざん)の孝王興(こう)の子、元帝の孫なり。哀帝崩じ、立って嗣となる。太皇太后、朝(ちょう)に臨む。大司馬莽、政を秉(と)る。百官己を総(す)べて以って聴く。 元始元年、 莽を安漢公と為す。 四年、莽の女(むすめ)を聘(へい)して皇后と為し、安漢公に号宰衡を加えて、諸侯王の上に位せしむ。 五年、太師孔光卒す。成哀以来、光等、三公と為り、漢の禍を養成し、諂佞(てんねい)、風(ふう)を成す。書を上(たてまつ)って莽を頌(しょう)する者、四十八万人に至る。莽に九錫を加う。 孝平皇帝は名を箕子と言い、のちに衎と改めた。中山の孝王の子で元帝の孫にたる。哀帝が崩御したため帝位を嗣いだ。帝は幼かったので太皇太后が朝廷に臨み、王莽が政務を執った。百官はみな自分の職務について王莽に指図を仰ぐようになった。 元始元年(後1年) 王莽に安漢公の尊号を与えた。 四年、王莽の娘を皇后にし、安漢公に宰衡という号を加えて、諸王、諸侯よりも上の位にした。 五年、太師孔光が死んだ。成帝、哀帝以来、孔光等が三公となって漢のわざわいを醸成し、媚びへつらう風習が蔓延した。それで上書して王莽を讃える者が四十八万人におよび、王莽に九錫(きゅうしゃく)を賜った。 宰衡 その昔、周公は冢宰(ちょうさい)となって成王を補佐し、殷の伊尹(いいん)は湯王を補佐して阿衡と呼ばれた。この二人を合わせ持ったとして与えられた称号。 九錫 天子から賜る九種の品や特典。輿馬、衣服、楽器、虎賁(勇者三百人)、弓矢、鈇鉞(ふえつ=殺生の権)、秬鬯(きょちょう=祭酒)、朱戸(朱塗りの門)、納陛(宮殿内の階段、取り次ぎ無しで直接天子に謁見できる権利)。 十八史略 王莽、平帝を毒殺し孺子嬰を立てる 2011-04-07 11 05 53 | 十八史略 臘日、莽上椒酒於帝、置毒。帝崩。在位六年、改元者一、曰元始。太皇太后詔徵宣帝玄孫嬰、爲皇太子。號曰孺子嬰。莽居攝踐祚、贊曰假皇帝、民臣謂之攝皇帝。 孺子嬰爲嗣之初、是爲王莽居攝元年。劉崇起兵討莽、不克死。 二年、東郡太守翟義、故丞相方進子也。起兵討莽、不克死。 臘日(ろうじつ)、莽、椒酒(しょうしゅ)を帝に上り、毒を置く。帝崩ず。在位六年、改元する者(こと)一、元始と曰(い)う。太皇太后、詔(みことのり)して宣帝の玄孫嬰(えい)を徴(ちょう)して皇太子と為す。号して孺子嬰(じゅし、えい)と曰う。莽、摂(せつ)に居て祚(そ)を践(ふ)み、賛するに仮皇帝と曰い、民臣は之を摂皇帝(せつこうてい)と謂う。 孺子嬰、嗣たるの初め、是を王莽の居摂(きょせつ)元年と為す。劉崇(りゅうしゅう)、兵を起こして莽を討ち克(か)たずして死せり。 二年、東郡の太守翟義(てきぎ)は、故(もと)の丞相方進の子なり。兵を起こして莽を討ち克たずして死せり。 十二月臘祭の日、王莽は椒酒を献上したが、その中に毒を仕込んでいた。それを飲んで平帝が亡くなった。在位六年、改元は一度、元始といった。太皇太后が詔を下し、宣帝の玄孫で二歳の嬰を召し出して皇太子とした。これを孺子嬰という。王莽は摂政でありながら践祚した。また祭祝の辞文には自身を仮皇帝といい、官民は摂政にして帝位に就いたことで摂皇帝といった。 孺子嬰が世嗣となった年を王莽の居摂元年(西暦6年)という。この年、劉崇が兵を起こして王莽を討とうとしたが勝たずに死んだ。 二年に東郡の太守で、もとの丞相の子の翟義が兵を起こして、王莽に敗れて死んだ。 臘日 冬至後第三戌の日に行う猟の獲物を先祖に供える祭り。椒酒 山椒の実に薬種を加え浸した酒。 十八史略 王莽帝位を簒奪し、国号を新と改める 2011-04-09 08 59 59 | 十八史略 初始元年、莽即眞天子位、國號新。更號漢太皇太后、曰新室文母太皇太后。 王莽者王曼之子也。孝元皇后兄弟八人。獨曼早死不侯。莽幼孤。羣兄弟皆將軍、五侯子、乗時侈靡、以輿馬聲色、佚游相高。莽折節爲恭儉、勤身博學、被服如儒生。外交英俊、内事諸父、曲有禮意。封新都侯。爵位尊、節操愈謙。虛譽隆洽、傾其諸父。遂得漢政。哀帝崩、迎立平帝。五年而弑帝、攝位三年、畢簒位、國號新。 初始元年、莽、真天子の位に即き、国を新と号す。漢の太皇太后を更(あらた)め号して、新室文母太皇太后と曰う。王莽は王曼(おうまん)の子なり。孝元皇后 の兄弟(けいてい)八人あり。独り曼、早く死して侯たらず。莽、幼にして孤なり。群兄弟は皆将軍、五侯の子、時に乗じて侈靡(しび)、輿馬(よば)声色を以って、佚游(いつゆう)して相高ぶる。莽、節を折って恭倹をなし、身を勤めて博く学び、被服、儒生の如し。外は英俊に交わり、内は諸父に事(つか)え、曲(つぶさ)に礼意有り。新都侯に封ぜらる。爵位益々尊く、節操愈々謙なり。虚譽隆洽(きょよりゅうこう)なること、その諸父を傾く。遂に漢の政(まつりごと)を得たり。哀帝崩じて、平帝を迎立(げいりつ)す。五年にして帝を弑(しい)し、位に摂すること三年、竟(つい)に位を簒(うば)い、国を新と号す。 初始元年(後8年)に王莽が天子の位に即き、国を新と改めた。また漢の太皇太后も改めて新室文母太皇太后といった。 王莽は王曼の子で、孝元帝の皇后王氏つまり太皇太后には八人の兄弟があったが、王曼だけが早く死んで、諸侯になれなかった。王莽は幼くして孤児となった。多くの従兄弟たちは将軍や五侯の子として時運に乗じて贅沢にふけり、車馬もきらびやかに歌舞や妓楼に遊びほうけていた。王莽だけは身を低く慎み深く振る舞い、勤めて学問をひろく修め、衣服は書生のように質素であった。外にあっては英俊と交わり、内では伯父たちにつかえて礼節をつくした。やがて 新都侯に封ぜられた。さらに爵位が上がるにつれて謙虚にふるまった。虚名はあまねく天下に知れ渡り、その人気は伯父たちを凌ぐようになり、ついに漢の政治の実権を握った。哀帝が崩御して平帝を迎えて擁立し、五年後には毒殺し、摂政となること三年、ついに天子の位を簒奪して、国号を新とした。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/85 十八史略 揚雄、閣上より身を投ず。 2011-04-12 14 37 43 | 十八史略 始建國元年、廢孺子嬰爲定安公。 二年、漢太皇太后崩。 天鳳四年、荊州盜起。新市人王匡爲之帥、馬武・王常・成丹往從之、藏於緑林山中。 五年、莽大夫揚雄死。雄字子雲、成帝之世、以奏賦爲郎、給仕黄門、三世不徙官。及莽簒、以耆老久次、轉爲大夫。嘗作太玄・法言、卒章稱莽功、比伊周。後又作劇秦美新之文、以頌莽。劉棻嘗從雄學奇字。棻坐事誅。辭連及雄。時雄校書天禄閣上。使者來欲収之。雄從閣上自投下。莽詔勿問。至是死。 始建国元年、孺子嬰を廃し定安公と為す。 二年、漢の太皇太后崩ず。 天鳳四年、荊州に盜起こる。新市の人王匡、之が帥(すい)と為り、馬武・王常・成丹、往(ゆ)いて之に従い、緑林山中に蔵(かく)る。 五年、莽の大夫揚雄死す。雄、字は子雲、成帝の世、賦を奏するを以って郎と為り、黄門に給仕して、三世、官を徒(うつ)さず。莽の簒(さん)するに及んで、耆老久次(きろうきゅうじ)を以って、転じて大夫と為る。嘗て太玄・法言を作り、卒章に莽の功徳(こうとく)を称して、伊周に比す。後また劇秦美新の文を作り、以って莽を頌(しょう)す。劉棻(りゅうふん)嘗て雄に従って奇字を学ぶ。棻、事に坐して誅せらる。辞、雄に連及す。時に雄、書を天禄閣上に校(こう)す。使者来たって之を収めんと欲す。雄、閣上より自ら投下す。莽、詔(みことのり)して問うこと勿(な)からしむ。是(ここ)に至って死す。 始建国元年(後9年)、孺子嬰を世嗣から廃して定安公とした。 二年、漢の太皇太后が崩じた。 天鳳四年(17年)、荊州に盜賊が起こった。新市の人王匡が首領となり、馬武・王常・成丹、たちがこれに従い、緑林の山中に立てこもった。 五年、王莽の大夫の揚雄が死んだ。雄は字を子雲といい、成帝の世に、賦を奏上して郎中に取り立てられ、殿中の給仕中となった。成帝・哀帝・平帝の三代、官職が変わらなかったが、王莽が帝位を奪うと、老年になるまで久しくその官にあったということで、大夫となった。嘗て易と論語に擬して太玄と法言の二書を著し、その終章で王莽の功徳を称して古の伊尹・周公になぞらえた。後にまた「秦をそしり、新をたたえる」という文章を作り、王莽を賞賛した。劉棻(りゅうふん)という者が、かつて揚雄について周代文字大篆(だいてん)を学んだことがある。その劉棻が罪に問われて誅殺されたが、共述に揚雄の名が挙っていた。揚雄が天禄閣で書物の校正をしていた時に取り調べの使者が身柄を拘束するために来たところ、雄は閣から身を躍らせて死にかけた。王莽は揚雄を問責しないよう詔を下した。それで生き延びてこの年に死んだのである。 緑林 後に盗賊のことを緑林というようになった。 賦 文体の一種、韻文。 黄門 宮城の門、広く宮中の役所の意。 給仕中 下級官吏、奏上の事務などを行う。 耆老久次 老年まで職にあること。太玄・法言 太玄経 易になぞらえた占いの書、宇宙万物の根本を論じた。法言 揚子法言 論語になぞらえて、天道と人道との関係を説く。 卒章 章の終わり。 劇秦美新 秦をそしり新を称える 十八史略 衆兵、莽を誅し首を伝えて更始にいたる。 2011-04-14 10 01 51 | 十八史略 瑯琊樊崇・東海刁子都等兵起。 地皇三年、崇兵自號赤眉。 緑林兵、分爲下江・新市兵。 荊州平林兵起。 漢宗室劉縯、及弟秀、起兵舂陵。新市・平林兵皆附之。明年、諸將共立劉玄爲皇帝。玄舂陵戴侯買之後、與縯秀同高祖。時在平林軍中、號更始將軍。諸將貪其懦弱立之。南面立朝羣臣、以手刮席、羞愧流汗、不能言。大赦改元更始、都于宛。更始元年、劉秀大破莽兵於昆陽。 成紀隗囂兵起。 公孫述起兵成都。 更始遣將破武關。析人曄、起兵迎入長安。衆兵誅莽傳首詣更始。 瑯琊(ろうや)の樊崇(はんすう)・東海の刁子都(ちょうしと)等の兵起こる。 地皇三年、崇の兵自ら赤眉(せきび)と号す。 緑林の兵、分かれて下江・新市の兵と為る。 荊州平林兵起こる。 漢の宗室劉縯(りゅうえん)、及弟秀、兵を舂陵(しょうりょう)に起こす。新市・平林の兵皆之に附く。明年、諸将共に劉玄を立てて皇帝と為す。玄は舂陵の戴侯買(たいこう ばい)の後にして、縯・秀と高祖を同じうす。時に平林の軍中に在り、更始将軍と号す。諸将、其の懦弱を貪って之を立つ。南面に立って群臣を朝(ちょう)せしむるに、手を以って 席を刮(かっ)し、羞愧(しゅうき)して汗を流し、言うこと能(あた)わず。大赦して、更始と改元し、宛(えん)に都(みやこ)す。 更始元年、劉秀大いに莽の兵を昆陽に破る。 成紀の隗囂(かいごう)の兵起こる。 公孫述(こうそんじゅつ)、兵を成都に起こす。 更始、将を遣わして武関を破る。析(せき)の人曄(とうよう)、兵を起こして、長安に迎え入る。衆兵、莽を誅し、首を伝えて更始に詣(いた)る。 この年、瑯琊の樊崇・東海の刁子都等の兵起こった。 地皇三年(22年)、樊崇の兵は自ら眉を赤く染めて赤眉(せきび)と名乗った。 緑林の兵が、分かれて下江と新市の兵となった。 荊州平林の兵が起こった。 漢室の血筋を引く劉縯と弟の劉秀が舂陵に兵を起こした。新市・平林の兵がつき従った。明年、諸将が劉玄を担いで皇帝に立てた。劉玄は舂陵に封ぜられた戴侯買の子孫で劉縯・劉秀とは四代前の先祖が同じである。当時、平林の軍中にあって更始将軍と呼ばれていた。諸将は劉玄が懦弱であることにつけ込んで皇帝にまつりあげたのである。南面して玉座に立ち群臣の拝謁を受けたが手で敷物をさするばかりで羞恥と不安に冷や汗を流すばかりで一言も発することが出来なかった。かくして即位の大赦が行われ、年号を更始と改め、都を宛に定めた。 更始元年(23年) 劉秀が昆陽にて王莽の軍を大破した。 成紀の人隗囂が挙兵した。 公孫述が成都に兵を起こした。 更始皇帝が将を派遣して武関を突破し、析(せき)の人曄が挙兵して呼応し、更始軍を長安に迎え入れた。多くの兵が王莽に襲いかかり、その首を更始帝のもとに送り伝えた 舂陵 湖北省にある。うすづくという字。 高祖 遠い祖先。 刮 こする。 詣 いたる行き着く。 十八史略 謳吟して漢を思うこと久し 2011-04-16 10 31 02 | 十八史略 莽未簒時、更定官名及十二州界、罷置改易、天下多事。更造錯刀・契刀・大錢等貨。既簒位、以劉字卯金刀也、禁剛卯金刀之利、不得行。罷錯刀・契刀・五銖錢等。更名天下田曰王田、不得買賣。男口不盈八、而田過一井、分餘田予九族郷里。故無田者受田。立五均・司市・錢府官、令民各以所業爲貢。更作寶貨。有金銀・龜貝・錢布・五物・六名・二十八品。百姓潰亂、寶貨不行。乃行小錢・大錢。數更變不信。盜鑄及私挾五銖錢者抵罪。於是農商失業、食貨倶廢、民至涕泣市道。後又改貨布・貨泉。毎一易錢、民又大陥犯鑄錢法、檻車鎖頸、傳詣長安者、以十萬數。死什六七。改易制度、政令煩多。四方囂然、謳吟思漢久矣。 莽、未だ簒(さん)せざる時、官名及び十二州の界(さかい)を更定(こうてい)し、罷置改易(ひちかいえき)し、天下多事なり。錯刀(さくとう)・契刀(けいとう)・大銭等の貨を更造(こうぞう)す。既に位を簒(うば)うや、劉の字は卯金刀なるを以って、剛卯(ごうぼう)金刀の利を禁じて、行うを得ざらしむ。錯刀・契刀・五銖銭等を罷(や)む。天下の田(でん)を更名(こうめい)して王田と曰い、買売するを得ざらしむ。男口(だんこう)八に盈(み)たずして、田、一井(いっせい)に過ぐるものは、余田を分って九族郷里に予(あた)えしむ。故に田無きものも田を受く。五均・司市(しし)・銭府の官を立て、民をして各々業とする所を以って貢(こう)を為さしむ。宝貨を更作(こうさく)す。金銀・亀貝(きばい)・銭布・五物・六名(りくめい)・二十八品有り。百姓(ひゃくせい)潰乱(かいらん)し、宝貨行われず。乃(すなわ)ち小銭・大銭を行う。数しば更変して信ならず。盗鋳するもの、及び私(ひそか)に五銖銭(ごしゅせん)を挟む者は罪に抵(いた)る。是に於いて農商、業を失い、食貨俱(とも)に廃(すた)れ、民、市道に涕泣するに至る。後又貨布・貨泉(かせん)を改む。一たび銭を易(か)うる毎に、民また大いに鋳銭法を陥犯(かんはん)し、檻車鎖頸(さけい)、伝(でん)して長安に詣(いた)る者、十万を以って数う。死するもの什に六七なり。制度を改易し、政令煩多なり。四方囂然(ごうぜん)、謳吟して漢を思うこと久し。 十八史略 謳吟して漢を思うこと久し。 2011-04-19 12 16 49 | 十八史略 王莽がまだ帝位を奪わなかった時、官の名称や十二州の境界を、廃止したり新設したり、天下は多事であった。また錯刀・契刀・大銭等の貨幣を新たに鋳造した。やがて位を奪うと、漢室の姓である劉の字は卯と金と刀とで成り立っているとして、印章の剛卯と、貨幣の金刀の使用を禁じて、使うことが出来ないようにした。さらに錯刀・契刀・五銖銭なども廃止した。天下の田地を改称して「王田」と呼び、売買を禁止し、男子の数が八人に満たない家で、田地が一井(九百畝)を過ぎる者はその余分の田地を分けて、親族や郷党に与えさせた。でそれで今まで田地の無かった者が田地を持つことができた。五均・司市・銭府といった役所をつくり、民がそれぞれ生業とするもので年貢を納めさせるようにした。貨幣をすべて改めた。金銀、亀、貝、銭、布の五物、六名、二十八品に分類された。あまりの煩雑さで人々が混乱し、貨幣が通用しなくなって小銭、大銭を流通させた。あまり数しば変更したので信用がなくなった。偽造する者や、廃止した五銖銭を密かに所持する者は罪に問うことにした。このようになって農民も商人も仕事を失い、食物、貨幣ともに流通が止まって、人々は道端に泣き叫ぶばかりとなった。後にまた貨布、貨泉を改めた。一たび貨幣を改める度に、民は私鋳を禁ずる法に触れる者が続出し、護送車に乗る者、首を鎖で繋がれて長安に送られる者が十万以上におよび、その十人に六、七人が命を落とした。制度を度々変え、政令も煩瑣をきわめたので天下は騒然となり、人々は歌に託して漢の世を懐かしく思い続けた。 剛卯 毎年一月の卯の日に印章を佩びて厄除けをする習わしがあった。 五均 市場の物価を調整する役所で長安ほか五箇所に設けた 司市 四季ごとに標準価格を定める。 銭府 低利で金銭を貸し付ける官。 五物 貨幣の材料となる金銀銅亀貝。六名 黄金、銀貨、亀甲、貝貨、銭貨、布貨。二十八品 金貨は一、銀貨は二種、亀貨は四種、貝貨は五種、銭貨は六種、布貨は十種、計二十八品種。 貨布 鋤や鍬をかたどった青銅製の貨幣。貨泉 円形方形孔の銅銭で貨泉の二字を刻した。 十八史略 天、徳を予に生ず、漢兵其れ予を如何せん 2011-04-21 08 42 06 | 十八史略 歳旱蝗。人相食、遠近兵起。莽以五石銅鑄威斗、如北斗状。欲以厭勝衆兵、出入使人負之以行。至漢兵入宮、猶旋席、随斗柄而坐曰、天生於予。漢兵其如予何。斬首漸臺。軍人分其身、節解臠之。自簒至亡、改元者三、曰始建國・天鳳・地皇。凡十五年。莽傳首至宛。更始自宛遷都洛陽。父老見司隷校尉官屬、或垂涕曰、不圖、今日復見漢官威儀。 更始元年、遷都長安。 赤眉攻長安。明年、赤眉入。更始出奔。已而降赤眉、爲所殺。自立至亡、凡三年。前數月、大司馬秀已即位於河北。是爲世祖光武皇帝。 歳(とし) 旱蝗(かんこう)あり。人相食(は)み、遠近兵起こる。莽、五石銅を以って威斗(いと)を鋳(い)、北斗の状の如くす。以って衆兵を厭勝(えんしょう)せんと欲し、出入に人をして之を負って以って行かしむ。漢兵、宮に入るに至っても、猶席を旋(めぐ)らし、斗柄(とへい)に随って坐して曰く、天、徳を予(われ)に生ず。漢兵其れ予を如何せん、と。首を漸台(ぜんだい)に斬る。軍人其の身を分ち、節解(せっかい)して之を臠(れん)す。簒より亡に至るまで改元する者(こと)三、始建国・天鳳・地皇と曰(い)う。凡(すべ)て十五年なり。莽、首を伝せられて宛に至る。更始、宛より都を洛陽に遷(うつ)す。父老、司隷校尉の官属を見、或る者は涕を垂れて曰く、図らざりき、今日復漢官の威儀を見んとは、と。 更始元年、都を長安に遷(うつ)す。 赤眉、長安を攻む。明年、赤眉入る。更始、出奔す。已にして赤眉に降(くだ)り、殺す所と為る。立(りつ)より亡に至るまで、凡て三年なり。前数月、大司馬秀、已に河北に位に即く。是を世祖光武皇帝と為す。 年々、旱魃(かんばつ)や蝗(いなご)の害に見舞われ、人々は共食いをするまで追いつめられ、各所で暴動が起こった。王莽は五種の薬石と銅で北斗星をかたどった威斗というものを鋳た。その霊威によって各所の兵を威圧しようとして、外出の折にも人に背負わせて行った。 漢の兵が宮中に攻め入って来ても、王莽は玉座の向きを変えて斗の柄が敵に向くように坐して「天が徳を予にさずけているのだ。漢の兵が予をどうすることが出来るものか」と強がっていたが、とうとう漸台で首を斬られてしまった。兵たちは、王莽の身体を節々に切り離し切り刻んでしまった。簒奪から滅亡に至るまで、改元すること三回、始建国・天鳳・地皇がそれで、あわせて十五年間である。莽の首は駅伝えに宛まで送られた。更始帝は宛から洛陽に都を遷した。この時、父老たちは司隷校尉の率いる属官たちを見て、ある者は涙を流しつつ「今日、こうして再び漢廷の役人の威容を目の当たりにしようとは思いもよらなかった」と言った。更始元年に長安に遷都した。 赤眉が長安を攻め、翌年には攻め入った。更始帝は逃げ出したが間もなく赤眉に降伏し、殺された。帝位に即いてから滅亡に至るまで、あわせて三年である。 その数か月前、大司馬の劉秀はすでに河北で皇帝の位に即いていた。これを世祖光武皇帝という。 漸台 未央宮にある高台。 臠 切り身。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/84
https://w.atwiki.jp/gukko/pages/46.html
何進(字:遂高) かしん蒼天何進 何皇后 かこうごう蒼天何后 蹇朔 けんさく 蹇碩 けんせき蒼天蹇碩 亶公 ぜんこう 張譲 ちょうじょう蒼天張譲 何進(字:遂高) かしん 生没:?~189年 本貫:南陽郡宛 官:大将軍 もともと屠殺業を営んでいたが、妹が宮中に入り、ときの皇帝劉宏(霊帝)の寵愛を受けたため、玉の輿のお相伴に預かった。 皇帝の寵姫の兄として順調に出世街道を歩み、黄巾の乱のおり、大将軍という最高官位に登り詰める。 その後も、外戚として宮中に重きをなしていたようだが、実際のところ、朝廷は宦官らが牛耳っており、彼自身にはそれほどの実権は無かったようだ。 それもあってか、何進は黄巾の後、急速に旧「清流」を汲む政閥に接近する。 どうにも成り上がりのバカ大将という印象の強い何進だが、清流人士の旗頭たるべく努力はしていたようで、袁紹・袁術兄弟を中心に、許攸、何顒、逢紀、荀攸ら鬼謀の士を幕僚に迎え、何進の幕府は俄に、清流党人の総本山の様相を呈していた。 清流派人士と協調して宦官勢力と対峙した外戚としては、党錮のおり陳蕃とともに闘死した大将軍竇武の例がある。何進も、カタチとしては清流派の英雄・竇武と似通った位置にあった。ひょっとしたら何進も、第二の竇武たらんと志を高く持っていたかもしれない。 ここにきて、宦官の中に蹇碩という特異な存在が顕れる。宦官のくせに骨柄雄偉で武略に優れ、皇帝の個人的な親愛を受けて西園八校尉の元帥に昇り、何進をも指揮下に納めるほどの軍権を手にしていた。彼は何進の甥の劉弁皇子ではなく、別腹の劉協皇子を擁し、何一族にとって最大の政敵、董太后(皇帝の生母)と同盟し、明確な「反何進派」を形成していた。 そんなさなか、皇帝劉宏がにわかに崩御。宦官蹇碩は、劉協皇子を新帝に立てるべく、先手をうって何進一族の誅滅に乗り出す。 が、蹇碩は巻き添えを恐れた宦官仲間たちに売られた。何進は予定のルートを通らずに朝廷に入り、甥の劉弁皇子を擁立して新帝とした。 ほどなく、蹇碩は逆に何進の手によって逮捕され、処断されてしまう。 無事に新帝が立ち、政敵蹇碩が除かれたものの、宮廷は相変わらず宦官たちの天下であった。 袁紹は、蹇碩を葬った勢いに乗じて、他の宦官達をも皆殺しにするよう何進に進言。何進もそれに同意するも、これには、宦官とズブズブの何皇后、弟の何苗が反発。おなじ何家の兄妹どうしながら、泥沼の政争に発展した。 何太后と何苗の説得を諦めた何進は、こともあろうに、天下の諸侯の兵力を掻き集めて宮廷を包囲し、軍事的な圧力をかけるという、とんでも無くアホな企画を実行してしまった。この愚策の立案者は袁紹であると言われ、さらに袁紹が勝手に実行したとも言われる。 いずれにせよ、洛陽周辺には、各方面から呼び集められた地方実力者らの軍隊が、続々と集まっていた。董卓の軍団も、その中の一つである。 そんななか、再三袁紹らが諫めたにもかかわらず、何進は愚かにも単身、宮中に参内してしまった。城外の連合軍の存在もあって、まさか己が害されることはあるまい、と高をくくっていたのかもしれない。 が、その機会を待っていた宦官らによって、じつにあっさりと殺害されてしまった。 何進は単身ではどうにも阿呆だったが、将器は備わっており、将兵たちには強く慕われていた。何進が可愛がっていた呉匡(蜀将・呉班の父)などは、何進が殺されたと知るや、ただちに仇討ちの部隊を組織。兵士らも涙を浮かべてそれに従ったという。そして呉匡隊は、宦官どもではなく、袁紹隊と共に宦官を殺戮していた何進の弟・何苗の部隊を襲撃した。何進が死んだのは何苗のせいである、と唆されたからである。不意を打たれた何苗は、為すすべもなく惨殺される。 ちなみにそう唆したのは袁紹または袁術であると言われ、まっさきに協力したのは董卓の弟・董旻である。 蒼天何進 見るからに出自の卑しそうな人相で登場。また成り上がり者らしく高慢・狭量なキャラクターとして描かれており、名門の袁紹を側近と恃み、逆に曹操を「宦官の孫」として卑しんでいたようだ。 とはいえ、袁紹ら清流派人士の旗頭として、一党を形成していた。宮中に細作をバラ撒き、内通者を確保する程度には権謀をわきまえており、皇帝崩御の報を、蹇碩の放った偽の勅使に先んじて入手している。 袁紹発案による、諸侯の軍事力をもって皇太后を締め上げるという作戦については、董卓や李儒から「想像以上に卑しい男」と嘲笑されている。 その諸侯の軍事力に慢心したか、皇太后の呼び出しという知らせにホイホイ付いていき、宮中で宦官らに取り囲まれ、数十本の剣を突き立てられて死んだ。 ちなみに、遙か後に「蒼天航路」にも登場する奇才・何晏は、この何進の孫である。 何皇后 かこうごう 生没:?~189年 本貫:南陽郡宛 官:皇太后 名前は不明。もともと屠殺屋の娘。何進から見て異母妹にあたる(父の後妻の子)。また彼女の妹は、大宦官・張譲の息子(養子?)に嫁いでいる。 よほど美人で名高かったのだろう。評判を聞きつけた同郷の宦官・郭勝(十常侍)が、おそらく宮中での権勢を得る手駒としてスカウトし、後宮入りさせたようだ。この後、郭勝は何兄妹の庇護者として何一族の面倒を見てやっている。また蹇碩による何進謀殺の案が持ち上がったとき、何進一派にそれを通報したのもこの男であるが、結局袁紹の宦官皆殺しの際に殺されたと思われる。 もっとも、何氏が郭勝にスカウトされたのではなく、逆に何氏が役人に賄賂を送って自らを売り込んだという説もある。 いずれにせよ、彼女には天性の傾国の質があったのだろう。たちまちライバルを押し退けて皇帝の寵愛を受け、皇子(劉弁)を産んだ。さらには宋皇后が廃されて後、皇后にまで登り詰める。 この宋皇后の廃立は、宦官勢力の讒言によるもので、一族や縁者も一斉に処分された(ちなみに当時23才だった曹操も、遠縁にあたるため巻き添えを喰らい、免職されている)。また嫉妬ぶかく性酷薄でもあり、自分の他に男子を産んだ后を毒殺している。 このようにガッチリと宦官に護られて皇后になったため、当然ながら宦官勢力の意のままに動く傀儡であった。 にもかかわらず、異母兄何進は清流派の士人と徒党を組み、宦官撲滅活動などを展開しているのだから、彼女にとっては冷笑するしかなく、兄というより政敵の一人というべき存在に映っていたであろう。 皇帝劉宏の死後は、実子劉弁が皇帝に即位(少帝)し、自らは皇太后・摂政となって朝政に臨む。彼女が摂政となって最初にやったことは、宿敵であった姑・長楽太后(霊帝の母・董太皇太后)勢力を朝廷から一掃することだった。程なく長楽太后は病死しており、何太后や宦官による毒殺と噂された。 このようにやりたい放題やっていた何太后だったが、ある夜、兄・何進が宦官たちによって殺され、またその宦官たちも何進の部下により皆殺しにされ、おまけに異父兄の何苗もどさくさに紛れて殺されてしまったため、一夜にして権勢の拠り所を失ってしまう。 唯一の救いは息子劉弁の存在だったが、その劉弁は、よりによって西方の怪雄・董卓によって身柄を確保されてしまった。 董卓は、皇帝劉弁の庸愚さと、何氏の影響力の大きさを憎み、あっさりと皇帝を廃立。母子ともども洛陽から追放してしまう。在位わずか5ヶ月であった。 このまま何事もなければ、あるいは地方の藩王親子として細々と生き長らえていたかもしれないが、このあと直ぐに東方で反董卓連合の動きがあったため、後方を憂いた董卓は、毒酒をもって廃帝母子を葬った。 「三国演義」では、董卓の謀臣李儒によって高楼から突き落とされ、墜死している。 蒼天何后 皇帝の后として、かなりキツめの美女として登場。後継者は劉協皇子(献帝)に…と言いかけた皇帝の口に豊満な胸を押し当てて塞ぎ、「聞こえませぬ」と空とぼけて見せた。 その劉協を擁する政敵・董太皇太后相手に、毒舌を振るい合う一騎打ちを展開し、周りの宮女たちを蒼白にさせていた。内政的な見識はともかくとして、後宮の女王としては、十分以上の胆智を備えていたようだ。 政敵を葬り、宮中の絶対権力者となった後も、兄・何進のたびたびの進言を退け、宦官らを庇っていた。 だが、彼女が女王であった期間は半年に満たなかった。何進は何太后の璽と名を騙った宦官により呼び出され、剣山のような死体と化する。この暗殺劇に、彼女自身が絡んでいたかどうかは不明。 直後、袁紹兄弟による宦官虐殺と、董卓の出現劇があり、一夜にして宮中の様相は一変する。 何太后はこのとき、意外にも我が子を思う凡庸な母の顔を見せていた。だが、董卓に自らを褒美として与えているさなか、「兄の代わりに大将軍にしてやろうぞ」などと口走ってしまった。はやばやと彼女の存在を有害と見定めたか、董卓は「安心しろ。お前の子もすぐに後を逐わせてやる」と、あっさり彼女の頸椎をへし折った。 蹇朔 けんさく 生没:?~174年? 本貫:? 官:? 有力な宦官・蹇碩の叔父という設定。正史では名は明らかでない(大宦官・張譲の弟に、張朔という悪名高い男がいるため、ここから名前が流用されたのかもしれない)。 宦官の一門ということで、相応に権勢を振るっていたと思われるが、ある日、禁令を犯して夜間外出をした際、当時洛陽北部尉だった曹操に捕らえられ、懲罰用の棒で殴り殺された。 曹操が法に峻厳だったこと、権勢に阿らなかったことを示すエピソードとして有名だが、よく考えたら曹操こそ、蹇碩なんぞ問題にならない程の大宦官曹騰の孫である。 さておき、「蒼天航路」でも、「蹇碩の叔父」は元気に登場。彼の馬車が不幸にも北門へ差し掛かったのは、おそらく曹操が着任して間もない頃だろう。 天子が夜中に呼び出す程だから、相当の大官あるいは寵臣だったのだろう。また門番の古株・宋鎰も蹇朔と見知っている。 その宋鎰らに行く手を阻まれ、激怒。曹操の掲げた高札をへし割って抗議するが、曹操の命で取り押さえられてしまう。 打擲台に拘束されると、さすがに怖気を覚えたか、慌てて宋鎰らへ愛嬌を振りまくが、スルーされる。 恐怖のあまり、最初の一打擲目でパニックに陥り、制止しようと宋鎰がのばした棒に「ちょん」と棒が背に触れた瞬間、ショックで頓死してしまう。「…部尉殿、死んでしまいました」 「ならばよし!」という伝説の名台詞が、ここで生まれた。 蹇碩 けんせき 生没:?~189年 本貫:? 官:黄門侍郎、上軍校尉 霊帝の時代に権勢を振るった宦官の一人。「三国演義」等では「十常侍」の一人と数えられる事が多いが、実際は異なる系統だったようだ。 というより、宦官としては少々変わり種だったようで、「頑健にして武略あり」というなかなかの偉丈夫だったらしく、霊帝の個人的な寵愛を受けていたという。 そのため、皇帝は中央軍とは別に、私設軍団ともいうべき「西園軍」(ミラージュ・コーアみたいなもん)を設けた際、自ら無上将軍と号して総司令官に就くと同時に、この宦官蹇碩を上軍校尉に任じ、西園軍の元帥とした。 ちなみに西園軍を率いる八人の司令官の中には、中軍校尉袁紹、左軍校尉淳于瓊、それに典軍校尉曹操などといった馴染みの名がある。また、西園八校尉の元帥たる上軍校尉蹇碩は、大将軍さえも指揮できる権限が与えられており、一時的ながら何進も蹇碩の部下であったわけである。 霊帝は次の皇帝を、何皇后の産んだ劉弁皇子ではなく、別腹の劉協皇子としたかったようだ。資質の差もあるかもしれないが、国家に有害な外戚の有無も判断基準であっただろう。あるいは14歳の時に遭った竇武のクーデター騒動で、清流派=悪という認識が刷り込まれていたのかもしれない。 そして彼が劉協を託したのが、宦官でありながら武略に優れる蹇碩だった。やたら蹇碩に軍権が集中するシステムになっていたのも、来るべき後継者争いを踏まえての事だったかもしれない。また蹇碩も、霊帝の期待に応えるべく、何進排斥の政治運動を開始する。 だが、蹇碩は宦官に売られた。多くの宦官にとっては、何兄妹に与する方が益多かったのだ。霊帝崩御に乗じ、一挙に何進一派を誅滅を目論んだ蹇碩は、仲間の密告により何進の手により逮捕され、獄中で殺された。 蒼天蹇碩 特に武張ったところもなく、十常侍の一人として登場。「自らの手で男根を切り落とし」と述懐しているので、権勢欲しさに自宮したのだろうが、途方もない勇気の持ち主である。熊の活け作りを平然とモリモリ食べてるあたり、胆力は尋常ではないだろう。 曹操に殺された叔父・蹇朔の仇討ちを恃まれるが、甥の立場としては冷然と断っていた。が、宦官蹇碩の面子が汚された事に対する報復として、曹操の殺害を決意する。 彼は皇族の亶公をけしかけ、敢えて禁を破らせ、曹操に処刑させるようし向ける。その後、皇族を殺害した大逆犯として、合法的に曹操を処刑する…という凄いのか凄くないのか判じがたい策を実行する。 が、むしろ皇族が介入するのを待ち構えていたのは曹操の方だった。曹操はその策を逆用して亶公を味方に引き入れ、宦官たちにとってタブーである「党錮の禁」について、帝へ直奏するチャンスを得てしまう。この失態により、蹇碩は上司の趙忠にビシバシ往復ビンタを打ち込まれ、さらに通りがかったボス張譲に書簡で殴られている。 などと対曹操では散々な目に遭った蹇碩だが、やはり帝の親任は厚く、伝通り劉協皇子を託され、董太后と組んで何進一派の一掃に乗り出した。まもなく霊帝が崩御すると、その事実を伏せて何進を呼びだし、誅殺しようと謀を巡らせる。 が、何進は現れず、代わりに現れた張譲に「おのれの部下も掌握できぬ者が、謀を巡らすでないわ」と言い捨てられる。張譲の左右には、蹇碩の側近であったはずの宦官たちが並んでいた。そして蹇碩が率いていた兵もまた、合図と同時に蹇碩に刃を向ける。 こうして蹇碩の首は、宦官全体に累が及ぶのを防ぐための棄て石として、何進に差し出された。 亶公 ぜんこう 生没:? 本貫:? 官:先帝の弟君 史伝に名は無い。「蒼天航路」のオリジナルキャラクターと思われる。 先帝の弟君…ということだから、蠡吾侯・劉翼の子で、桓帝・劉志の弟ということになるのだろう。桓帝の弟で有名なのは勃海王・劉悝だが、任国に赴任しているので、洛陽で「亶公」とは呼ばる可能性は低い。(しかし賄賂をケチって宦官と対立し、後に謀叛の罪を着せられ自殺させられているあたり、それっぽいと言えなくもないが) 好事家で有名らしく、派手なファッションで街路を練り歩き、洛陽を騒がす鬼の北部尉・曹操を見物に現れた。 が、ここでネタ晴らし。じつはこの鬼見物、曹操に皇族殺しの罪を着せて誅殺するという、手の込んだ罠だったのだ。無論殺される予定の亶公本人には知らされていない。 仕掛け人蹇碩の思惑通り、亶公は曹操に捕らえられ、容赦ない打擲の罰を受ける。 …のだが、曹操は逆に蹇碩を叩きのめす罠として設定し直し、見事蹇碩をやりこめた。 この亶公、最初こそアレだったが、これでなかなかの人物だったようだ。蹇朔が一撃でショック死してしまった五彩棒による打擲を五発も耐え、まだ曹操を睨み付ける気概があった。何より、曹操の激烈な批判を受け止め、「たいそう堪えた」と自省するだけの器量があった。 亶公はすっかり曹操のシンパになったようで、宦官に対抗する曹操を支持し、彼が帝に直奏できるよう手引きをしている。 直奏の結果、曹操は栄転という形で都を追放されるが、残してゆく亶公の安全が気掛かりであったらしく、腹心の張奐老人に、亶公の護衛として残るよう命じていた。 以後、物語には名前も登場せず。それからおおよそ5~10年後、故国譙に隠棲する曹操の元へ、諸国の情報収集を済ませた張奐が訪れていた。この時点で、亶公のボディガードの任を解かれていたということは、後任に引き継いだのか、亶公の身に何かあったか、のいずれかであろう。 張譲 ちょうじょう 生没:? 本貫:兗州潁川郡 官:中常侍 後漢末期に蔓延った宦官の代表格。趙忠と並んで「十常侍」の筆頭として描かれる事が多く、霊帝も「張常侍は我が父、趙常侍は我が母」と、特に二人への親任ぶりを語っている。官位でいえば先輩格の趙忠のほうが一段上にいるのだが、何かと張譲の方が目立っている。 「三国演義」等に見られる宦官の普遍的イメージどおり、皇帝の寵を恃んでやりたい放題やっていた。100%意見が通った訳ではないようだが、殆どの場合、張譲らが言うとおりに皇帝が璽を捺してしまうので、彼らにわずかでも睨まれた者は、即座に官界を追放されるか、口実を設けて逮捕され、多くの場合殺されている。 また、彼ら個人による弊害も大きいが、何よりも彼らの一門衆が刺史だの太守だのに任じられて赴任し、地方行政をムチャクチャにしたことの方が、王朝にとってダメージは大きかったかもしれない。 張譲に限った事ではないが、当時の常侍らの物欲は精神病の一種といってよく、地方へ派遣した一族連中を通じ、まるでポンプで水を吸い上げるかのように、地方の財物という財物を、人民がカラカラに枯れ果てるまで吸い上げさせ続けた。これでは謀叛を起こすなという方がおかしい状況であろう。 このように「集めるために集めた」としか思えない財が集積されている張譲の私邸は、何かとドラマになりやすかったらしい。先帝の頃、弟の張朔が不法を為して司法から逃げ込んできたときは、蔵の柱の「中」に潜伏させた(踏み込んできた司隷校尉・李膺に見破られて破壊されている)というし、後の蜀将・孟達の父にまつわるドス黒い頓知エピソードがあったのもこの門前である。また、何があったか不明だが、若き日の曹操もこの屋敷で、剣戟振り回しての大殺陣回りをやらかした記録が残されている。 そんなマイホーム運の微妙な張譲だが、どういう経緯か道教に傾倒していたらしく、太平道教の信者でもあったという。後に彼らが黄巾の乱賊となった際は、このことを豫州刺史王允にチクられ、あわや進退問題にまで発展しかけた(王允はこのことで恨まれ、別件で逮捕されている)。 その黄巾の一件のあとも、霊帝の身辺にべっとりとまとわりつき、相変わらず政務を壟断すること甚だしかったが、ここにきて、手駒の一人であった大将軍・何進が、急に反宦官派の領袖になってしまい、後宮内に嫌ぁなムードが漂っていた。 おまけに、若手の武闘派宦官・蹇碩なる者が、張譲らとは別ラインで軍事力を掌握し、皇帝の親衛軍団長のような位置に居座ってしまった。蹇碩は、皇帝とその生母董太后に個人的親任を寄せられているとあって、一強皆弱の政情に慣れている張譲らとしては、面倒な事態であったに違いない。 その蹇碩から、何進一派掃滅の相談を持ちかけられたとき、張譲ら「十常侍」はパワーバランスを考慮してか、蹇碩を何進と何太后に売った。蹇碩は捕らえられ殺された。 が、その直後、何進(というか袁紹)が宦官皆殺しの軍事行動を起こすという情報が漏れ聞こえたため、こんどは何進を何太后の名で宮中に呼びだして、これを暗殺した。 世の常であれば、このまま事態は一挙に収束したであろうが、張譲らは袁紹ら青年将校の憎悪を読み誤った。何進派残党は、無法にも武装したまま宮廷になだれ込み、手当たり次第に宦官の虐殺を始めたのだ。さすがにこの前代未聞の光景に、張譲らも肝を潰したに違いない。先代の陳蕃や竇武だって、こういうことをやりたかったのに、ついには出来なかった暴挙なのである。 張譲らは取るものも取り敢えず、天子の身柄を拉致して宮殿外へ脱出。殺戮に夢中で、かつ地理に不案内な袁紹軍の包囲網から一時は抜け出ることに成功したが、すぐに王允が派遣した盧植ら追撃軍に追いつかれ、洛陽北郊数キロの黄河河畔まで追いつめられた。 国政を我が物顔で壟断した大宦官らが、目の前で人形のように次々と斬り立てられてゆくに及んで、張譲はとうとう夜の黄河へ身を投げた。張譲の伝には「臣ら皆死に、天下は乱れましょう!陛下はご自愛ください!」と格好いいことを言って身を投げたとある。中国史上でも屈指の「お前が言うな」のシーンだ。 そして張譲の言通り、この直後現れる怪雄・董卓の手により、朝廷は未曾有の混乱に陥り、天下は群雄割拠の乱世を迎えるのである。 蒼天張譲 ピラニアのように鋭角的な雰囲気を持つ老宦官として登場。見た目通り怜悧冷酷で、凄味のある権謀家として描かれている。 宦官で、かつ老境にある身ながら、性欲は文字通り「絶倫」で、私邸の寝室に多くの妾を囲い、夜ごと乱交めいた痴宴を繰り広げていたようだ。曹操が「よりによってあの張譲」と叫ぶほど、淫猥(言うほどアブノーマルな描写はないが)ぶりで有名だったらしい。 好事家…というかマニアックな性癖でもあったのだろう。洛陽の市中に胡人(西方の異人)の女奴隷が居る、と噂を聞きつけたらしく、その胡人の女「水晶」を高値で買い取っている。一応対価を払うあたり、常識内のラインでは常識人だったようだ。 が、その「水晶」が、よりによって曹操の想い人であったのが、双方にとっての不幸であった。先に婚約を結んでいた「水晶」の返還を求め、曹操は正装して張譲の屋敷を訪れた。曹操は最初情理を以て、次第に脅迫めいた文言で張譲へ迫る。むろん張譲は返還を拒否。だが当の「水晶」が張譲に斬り付けて、顔にザックリと傷を負わせた。直後、衛兵の投槍に貫かれる「水晶」。 この流れだけでいえば、この時点で罪を問われるのは「水晶」だけであろう(いや、曹操の脅迫もか)。が、張譲は曹操の人柄尋常ならずと判断し、曹操をも殺すよう衛兵に指示。ここで、有名な「張譲の庭に手戟を舞わし、その才武絶人、害せるもの莫し」というエピソードどおりの展開となる。 曹操を取り逃がした張譲は、司法官の橋玄を訪れ、曹操に死刑判決を下すよう露骨に圧力をかける。とはいえ、かつての大先輩曹騰の脅迫すら笑殺してのける張譲であっても、この橋玄に対しては「心して掛からねば」と自戒するほどの用心ぶりである。橋玄個人、あるいは司法には宦官と拮抗するほどの不可侵権があったのかもしれない。 そして判決は(おそらく)無罪であった。この後、死を以て威されていた司法官の橋玄がどのような目に遭ったか定かではない。だが前述の通り、張譲と司法官橋玄のパワーバランスを見る限り、単なる威喝だけで済んだのかもしれない。 ちなみに曹操を「乱世の姦雄」と評したとされる橋玄であれば、実のところこの時点で既に司徒・司空を歴任する超大物官僚であり、この事件から数年後、無事に太尉に昇っている。 その後も何かと曹操の隙を探していたのであろうが、とうとう曹操が任官するまで「何も手出しできず」にいたらしい。その曹操を安易に陥れようと画策する蹇碩を、苦々しく叱責するシーンもある。案の定、曹操の罠に陥った蹇碩らの尻ぬぐいをするなど、後宮のボスも大変そうであった。 そして十年の時を経て、黄巾の乱、霊帝の崩御という変事がめまぐるしく起こる。蹇碩による何進暗殺未遂事件の際は、いち早く蹇碩を切り捨てることで何太后に泣訴し、宦官への総攻撃を思い留まらせる事に成功。 しかる後、今度は何進を呼び出して暗殺。諜報でこのことを知った曹操は「張譲は最後まで張譲だったな」と冷笑している。 どうやら并州牧(実質は涼州の独立軍閥)の董卓と密約を結んでいたらしく、天子の身柄と彼の軍事力をもって、再び朝廷を掌握するプランを立てていたようだ。この直後に勃発した宦官虐殺まで予想していたかどうかは不明だが、予定通り張譲は天子を擁し、董卓軍の陣営と合流する。 しかし、張譲は董卓という人物を完全に読み違えていた。董卓は、宦官はおろか天子の威名でさえコントロール不可能な怪物だったのだ。 董卓曰く「お前の頭から皮を剥ぎ取り、足からは一寸刻みに肉を削ぎ、長い時間をかけて死に至らせる。そしてその男根の痕跡を人目に晒し、苦と惨と悲をからめて地獄におとす!」 「この張譲も老いていたか。董卓の無法の量を見誤っておったとは」と、諦めの表情を浮かべるシーンが、大宦官・張譲の最後のシーンであった。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/418.html
唐書巻一百九十二 列伝第一百一十七 忠義中 顔杲卿 春卿 賈循 隠林 張巡 許遠 南霽雲 雷万春 姚誾 顔杲卿字昕、與真卿同五世祖、以文儒世家。父元孫、有名垂拱間、為濠州刺史。杲卿以蔭調遂州司法参軍。性剛正、蒞事明済。嘗為刺史詰讓、正色別白、不為屈。開元中、與兄春卿・弟曜卿並以書判超等、吏部侍郎席豫咨嗟推伏。再以最遷范陽戸曹参軍。安禄山聞其名、表為營田判官、假常山太守。 禄山反、杲卿及長史袁履謙謁于道、賜杲卿紫袍、履謙緋袍、令與假子李欽湊以兵七千屯土門。杲卿指所賜衣謂履謙曰:「與公何為著此?」履謙悟、乃與真定令賈深・内丘令張通幽定謀圖賊。杲卿稱疾不視事、使子泉明往返計議、陰結太原尹王承業為應、使平盧節度副使賈循取幽州。謀泄、禄山殺循、以向潤客・牛廷玠守。杲卿陽不事事、委政履謙、潜召處士權渙・郭仲邕定策。時真卿在平原、素聞賊逆謀、陰養死士為拒守計。李憕等死、賊使段子光伝首徇諸郡、真卿斬子光、遣甥盧逖至常山約起兵、斷賊北道。杲卿大喜、以為兵掎角可挫賊西鋒。乃矯賊命召欽湊計事、欽湊夜還、杲卿辭城門不可夜開、舍之外郵。使履謙及参軍馮虔・郡豪翟万徳等数人飲勞、既醉、斬之、并殺其将潘惟慎、賊黨殲、投尸滹沱水。履謙以首示杲卿、則喜且泣。 先是、禄山遣将高邈召兵范陽未還、杲卿使城尉崔安石圖之。邈至滿城、虔・万徳皆會伝舍、安石紿以置酒、邈捨馬、虔叱吏縛之。而賊将何千年自趙來、虔亦執之。日未中、送二賊。杲卿乃遣万徳・深・通幽伝欽湊首、械兩賊送京師、與泉明偕。至太原、王承業欲自以為功、厚遣泉明還、陰令壮士翟喬賊於路。喬不平、告之故、乃免。玄宗擢承業大将軍、送吏皆被賞。已而事顯、乃拜杲卿衛尉卿兼御史中丞、履謙常山太守、深司馬。即伝檄河北、言王師二十万入土門、遣郭仲邕領百騎為先鋒、馳而南、曳柴揚塵、望者謂大軍至。日中、伝数百里。賊張獻誠方圍饒陽、棄甲走。於是趙・鉅鹿・廣平・河間並斬偽刺史、伝首常山。而楽安・博陵・上谷・文安・信都・魏・鄴諸郡皆自固。杲卿兄弟兵大振。 禄山至陝、聞兵興、大懼。使史思明等率平盧兵度河攻常山、蔡希徳自懐會師。不涉旬、賊急攻城。兵少、未及為守計、求救于河東、承業前已攘殺賊功、兵不出。杲卿畫夜戰、井竭、糧・矢盡、六日而陷、與履謙同執。賊脅使降、不應。取少子季明加刃頸上曰:「降我、當活而子。」杲卿不答。遂并盧逖殺之。杲卿至洛陽、禄山怒曰:「吾擢爾太守、何所負而反?」杲卿瞋目罵曰:「汝營州牧羊羯奴耳、竊荷恩寵、天子負汝何事、而乃反乎?我世唐臣、守忠義、恨不斬汝以謝上、乃從爾反耶?」禄山不勝忿、縛之天津橋柱、節解以肉噉之、詈不絶、賊鉤斷其舌、曰:「復能罵否?」杲卿含胡而絶、年六十五。履謙既斷手足、何千年弟適在傍、咀血噴其面、賊臠之、見者垂泣。杲卿宗子近屬皆被害。杲卿已虜、諸郡復為賊守。 張通幽以兄相賊、譖杲卿於楊国忠、故不加贈。肅宗在鳳翔、真卿表其枉、會通幽為普安太守、上皇杖殺之。李光弼・郭子儀收常山、出杲卿・履謙二家親屬数百人於獄、厚給遺、令行喪。乾元初、贈杲卿太子太保、謚曰忠節、封其妻崔清河郡夫人。初、博士裴郁以杲卿不執政、但謚曰忠、議者不平、故以二惠謚焉。逖・季明及宗子等皆贈五品官。建中中、又贈杲卿司徒。初、杲卿被殺、徇首于衢、莫敢收。有張湊者、得其髮、持謁上皇。是昔見夢、帝寤、為祭。後湊歸髮于其妻、妻疑之、髮若動云。後泉明購尸将葬、得刑者言、死時一足先斷、與履謙同坎瘞。指其域得之、乃葬長安鳳栖原。季明・逖同塋。 泉明有孝節、喜振人之急。既為承業所遣、未至而常山陷、故客寿陽。史思明圍李光弼、獲泉明、裹以革、送幽州、間関得免。思明歸国、而真卿方為蒲州刺史、令泉明到河北求宗屬。始、一女及姑女並流離賊中、及是并得之、悉錢三万贖姑女還、取貲復往、則己女復失之。履謙及父故将妻子奴隸尚三百餘人、轉徙不自存、泉明悉力贍給、分多勻薄、相扶挾度河託真卿。真卿隨所歸資送之。泉明之殯父、與履謙分柩、護還長安、履謙妻疑斂具儉狹、發視之、與杲卿等、乃號踊、待泉明如父。肅宗拜泉明郫令、政化清明、誅宿盜、人情翕然。成都尹舉其課第一、遷彭州司馬。家貧、居官廉、而孤藐相從百口、鬻不給、無慍歎。居母喪、毀骨立。其行義、當世以為難。 春卿倜儻美姿儀、通當世務。十六舉明經・拔萃高第、調犀浦主簿。嘗送徒於州、亡其籍、至廷、口記物色、凡千人、無所差。長史陸象先異之、轉蜀尉。蘇頲代為長史、被譖繋獄、為櫚賦自託、頲遽出之。魏徴遠孫瞻罪抵死、春卿為請玉真公主、得不死、時人高其節。終偃師丞。臨終、捉真卿臂曰:「爾當大吾族、顧我不得見、以諸子諉汝。」後真卿主其昏嫁。 沈盈者、亦杲卿甥、有行義、明黄老学。解褐博野尉、與杲卿同死難、贈大理正、官其二子遙・達。 賈循者、京兆華原人、其先家常山。父會、有高節、嘗稱疾不答辟署、里中號「一龍」。親亡、負土成墓、廬其左、手蒔松柏、時號「関中曾子」。卒、県人私謚曰廣孝徴君。 循有大略、礼部尚書蘇頲嘗謂今頗・牧、及為益州、表署列将。敗吐蕃於西山、三遷静塞軍營田使。張守珪北伐、次灤河、屬凍、欲済無梁。循揣廣狹為橋以済、破虜而還、以功擢游撃将軍・楡関守捉使。地南負海、北屬長城、林埌岑翳、寇所蔽伏。循調士斬木開道、賊遁去。范陽節度使李適之薦為安東副大都護。安禄山兼平盧節度、表為副、遷博陵太守。禄山欲撃奚・契丹、復奏循光禄卿自副、使知留後。九姓叛、禄山兼節度河東、而循亦兼鴈門副之。母亡将葬、宅有枯桑、一夕再生、芝出北墉、人以為瑞。玄宗以循有功、詔贈其父常山太守。 禄山反、使循守幽州、故杲卿招之、以傾賊巣穴、循許可。為向潤客等發其謀、賊縊之。建中二年、贈太尉、謚曰忠。 從子隠林、為永平兵馬使。當入衛、屬朱泚難、率衆扈行在。徳宗見隠林、偉其貌、問家世、答曰:「故范陽節度副使循、臣從父也。」帝異之、引至臥内、以手板畫地陳攻守計、即奏曰:「臣嘗夢日墜、以首承之。」帝曰:「非朕邪?」因令糾察行在、遷検校右散騎常侍、封武威郡王。 賊圍急、隠林與侯仲莊冒矢石死戰。已而解、從臣稱慶、隠林流涕前曰:「泚已奔、臣大慶宗社無疆之休、然陛下資性急、不能容掩。若不悛、雖今賊亡、憂未艾也。」帝不以為忤、拜神策統軍。卒、帝思其質直、贈尚書左僕射、以實戸三百封其家。 張巡字巡、鄧州南陽人。博通書、曉戰陣法。氣志高邁、略細節、所交必大人長者、不與庸俗合、時人叵知也。開元末、擢進士第。時兄曉已位監察御史、皆以名稱重一時。巡繇太子通事舍人出為清河令、治績最、而負節義、或以困歸者、傾貲振護無吝。秩滿還都。於是楊国忠方專国、權勢可炙。或勸一見、且顯用、答曰:「是方為国怪祥、朝宦不可為也。」更調真源令。土多豪猾、大吏華南金樹威恣肆、邑中語曰:「南金口、明府手。」巡下車、以法誅之、赦餘黨、莫不改行遷善。政簡約、民甚宜之。 安禄山反、天宝十五載正月、賊酋張通晤陷宋・曹等州、譙郡太守楊万石降賊、逼巡為長史、使西迎賊軍。巡率吏哭玄元皇帝祠、遂起兵討賊、從者千餘。初、靈昌太守嗣呉王祗受詔合河南兵拒禄山、有單父尉賈賁者、閬州刺史璿之子、率吏稱呉王兵、撃宋州。通晤走襄邑、為頓丘令盧韺所殺。賁引軍進至雍丘、巡與之合、有衆二千。是時雍丘令令狐潮舉県附賊、遂自将東敗淮陽兵、虜其衆、反接在廷、将殺之、暫出行部。淮陽囚更解縛、起殺守者、迎賁等入。潮不得歸、巡乃屠其妻子、磔城上。祗聞、承制拜賁監察御史。潮怨賁、還攻雍丘、賁趨門、為衆躪死。巡馳騎決戰、身被創不顧、士乃奉巡主軍。間道表諸朝、騰牋祗府、祗乃舉兗以東委巡經略。 潮以賊衆四万薄城、人大恐。巡諭諸将曰:「賊知城中虚實、有輕我心。今出不意、可驚而潰也、乘之、勢必折。」諸将曰:「善。」巡乃分千人乘城、以数隊出、身前驅、直薄潮軍、軍。明日賊攻城、設百樓、巡柵城上、束芻灌膏以焚焉、賊不敢向、巡伺隙撃之。積六旬、大小数百戰、士帶甲食、裹瘡鬭、潮遂敗走、追之、幾獲。潮怒、復率衆來。然素善巡、至城下、情語巡曰:「本朝危蹙、兵不能出関、天下事去矣。足下以羸兵守危堞、忠無所立、盍相從以苟富貴乎?」巡曰:「古者父死於君、義不報。子乃銜妻孥怨、假力于賊以相圖、吾見君頭干通衢、為百世笑、奈何?」潮然去。 當此時、王命不復通、大将六人白巡以勢不敵、且上存亡莫知、不如降。六人者、皆官開府・特進。巡陽許諾、明日堂上設天子畫像、率軍士朝、人人盡泣。巡引六将至、責以大誼、斬之。士心益勸。 會糧乏、潮餉賊鹽米数百艘且至、巡夜壁城南、潮悉軍來拒、巡遣勇士銜枚濱河、取鹽米千斛、焚其餘而還。城中矢盡、巡縛為人千餘、被黒衣、夜縋城下、潮兵爭射之、久、乃人。還、得箭数十万。其後復夜縋人、賊笑、不設備、乃以死士五百斫潮營、軍大亂、焚壘幕、追奔十餘里。賊慚、益兵圍之。薪水竭、巡紿潮、欲引衆走、請退軍二舍、使我逸。潮不知其謀、許之。遂空城四出三十里、撤屋發木而還為備。潮怒、圍復合。巡徐謂潮曰:「君須此城、歸馬三十匹、我得馬且出奔、請君取城以藉口。」潮歸馬、巡悉以給驍将、約曰:「賊至、人取一将。」明日、潮責巡、答曰:「吾欲去、将士不從、奈何?」潮怒欲戰、陣未成、三十騎突出、禽将十四、斬百餘級、收器械牛馬。潮遁還陳留、不復出。七月、潮率賊将瞿伯玉攻城、遣偽使者四人伝賊命招巡、巡斬以徇、餘縶送祗所。圍凡四月、賊常数万、而巡衆纔千餘、毎戰輒克。於是河南節度使嗣虢王巨屯彭城、假巡先鋒。 俄而魯・東平陷賊、済陰太守高承義舉郡叛、巨引兵東走臨淮。賊将楊朝宗謀趨寧陵、絶巡餉路。巡外失巨依、拔衆保寧陵、馬裁三百、兵三千。至睢陽、與太守許遠・城父令姚誾等合。乃遣将雷万春・南霽雲等領兵戰寧陵北、斬賊将二十、殺万餘人、投尸于汴、水為不流。朝宗夜去。有詔拜巡主客郎中、副河南節度使。巡籍将士有功者請于巨、巨纔授折衝・果毅。巡諫曰:「宗社尚危、園陵孤外、渠可吝賞與貲?」巨不聽。 至徳二載、禄山死、慶緒遣其下尹子琦将同羅・突厥・奚勁兵與朝宗合、凡十餘万、攻睢陽。巡勵士固守、日中二十戰、氣不衰。遠自以材不及巡、請稟軍事而居其下、巡受不辭、遠專治軍糧戰具。前此、遠将李滔救東平、遂叛入賊、大将田秀榮潜與通。或以告遠曰:「晨出戰、以碧帽為識。」視之如言、盡履其衆。還輒曰:「我誘之也。」請以精騎往、易錦帽。遠以告巡、巡召登城、讓之、斬首示賊。因出薄戰、子琦敗、獲車馬牛羊、悉分士、秋豪無入其家、有詔拜巡御史中丞、遠侍御史、誾吏部郎中。 巡欲乘勝撃陳留、子琦聞、復圍城。巡語其下曰:「吾蒙上恩、賊若復來、正有死耳。諸君雖捐軀、而賞不直勳、以此痛恨!」聞者感概。乃椎牛大饗、悉軍戰。賊望兵少、大笑。巡・遠親鼓之、賊潰、追北数十里。其五月、賊刈麥、乃済師。巡夜鳴鼓嚴隊、若将出。賊申警。俄息鼓、賊覘城上兵休、乃弛備。巡使南霽雲等開門徑抵子琦所、斬将拔旗。有大酋被甲、引拓羯千騎麾幟乘城招巡。巡陰縋勇士数十人隍中、持鉤・陌刀・彊弩、約曰:「聞鼓聲而奮。」酋恃衆不為備、城上譟、伏發禽之、弩注矢外向、救兵不能前。俄而縋士復登陴、賊皆愕眙、乃按甲不出。巡欲射子琦、莫能辨、因剡蒿為矢。中者喜、謂巡矢盡、走白子琦、乃得其状。使霽雲射、一發中左目、賊還。七月、復圍城。 初、睢陽穀六万斛、可支一歳、而巨發其半餫濮陽・済陰、遠固爭、不聽。済陰得糧即叛。至是食盡、士日賦米一勺、齕木皮、紙而食、才千餘人、皆劣不能彀、救兵不至。賊知之、以雲衝傅堞、巡出鉤干拄之、使不得進、篝火焚梯、賊以鉤車・木馬進、巡輒破碎之。賊服其機、不復攻、穿壕立柵以守。巡士多餓死、存者皆痍傷氣乏。巡出愛妾曰:「諸君經年乏食、而忠義不少衰、吾恨不割肌以啖衆、寧惜一妾而坐視士飢?」乃殺以大饗、坐者皆泣。巡彊令食之、遠亦殺奴僮以哺卒、至羅雀掘鼠、鎧弩以食。 賊将李懐忠過城下、巡問:「君事胡幾何?」曰:「二期。」巡曰:「君祖・父官乎?」曰:「然。」「君世受官。食天子粟、奈何從賊、関弓與我确?」懐忠曰:「不然、我昔為将、数死戰、竟歿賊、此殆天也。」巡曰:「自古悖逆終夷滅、一日事平、君父母妻子並誅、何忍為此?」懐忠掩涕去、俄率其黨数十人降。巡前後説降賊将甚多、皆得其死力。 御史大夫賀蘭進明代巨節度、屯臨淮、許叔冀・尚衡次彭城、皆観望莫肯救。巡使霽雲如叔冀請師、不應、遺布数千端。霽雲嫚罵馬上、請決死鬭、叔冀不敢應。巡復遣如臨淮告急、引精騎三十冒圍出、賊万衆遮之、霽雲左右射、皆披靡。既見進明、進明曰:「睢陽存亡已決、兵出何益?」霽雲曰:「城或未下。如已亡、請以死謝大夫。」叔冀者、進明麾下也、房琯本以牽制進明、亦兼御史大夫、勢相埒而兵精。進明懼師出且見襲、又忌巡聲威、恐成功、初無出師意。又愛霽雲壮士、欲留之。為大饗、楽作、霽雲泣曰:「昨出睢陽時、将士不粒食已彌月。今大夫兵不出、而廣設聲楽、義不忍独享、雖食、弗下咽。今主将之命不達、霽雲請置一指以示信、歸報中丞也。」因拔佩刀斷指、一座大驚、為出涕。卒不食去。抽矢回射佛寺浮圖、矢著、曰:「吾破賊還、必滅賀蘭、此矢所以志也!」至真源、李賁遺馬百匹。次寧陵、得城使廉坦兵三千、夜冒圍入。賊覺、拒之、且戰且引、兵多死、所至才千人。方大霧、巡聞戰聲、曰:「此霽雲等聲也。」乃啓門、驅賊牛数百入、将士相持泣。 賊知外援絶、圍益急。衆議東奔、巡・遠議以睢陽江・淮保障也、若棄之、賊乘勝鼓而南、江・淮必亡。且帥飢衆行、必不達。十月癸丑、賊攻城、士病不能戰。巡西向拜曰:「孤城備竭、弗能全。臣生不報陛下、死為鬼以癘賊。」城遂陷、與遠倶執。巡衆見之、起且哭、巡曰:「安之、勿怖、死乃命也。」衆不能仰視。子琦謂巡曰:「聞公督戰、大呼輒眥裂血面、嚼齒皆碎、何至是?」答曰:「吾欲氣呑逆賊、顧力屈耳。」子琦怒、以刀抉其口、齒存者三四。巡罵曰:「我為君父死、爾附賊、乃犬彘也、安得久!」子琦服其節、将釋之。或曰:「彼守義者、烏肯為我用?且得衆心、不可留。」乃以刃脅降、巡不屈。又降霽雲、未應、巡呼曰:「南八!男兒死爾、不可為不義屈!」霽雲笑曰:「欲将有為也、公知我者、敢不死!」亦不肯降。乃與姚誾・雷万春等三十六人遇害。巡年四十九。初、子琦議生致一人慶緒所、或曰:「用兵拒守者、巡也。」乃送遠洛陽、至偃師、亦以不屈死。巨之走臨淮、巡有姊嫁陸氏、遮王勸勿行、不納、賜百縑、弗受、為巡補縫行間、軍中號「陸家姑」、先巡被害。 巡長七尺、須髯毎怒盡張。讀書不過三復、終身不忘。為文章不立。守睢陽、士卒居人、一見問姓名、其後無不識。更潮及子琦、大小四百戰、斬将三百・卒十餘万。其用兵未嘗依古法、勒大将教戰、各出其意。或問之、答曰:「古者人情敦樸、故軍有左右前後、大将居中、三軍望之以斉進退、今胡人務馳突、雲合鳥散、變態百出、故吾止使兵識将意、将識士情、上下相習、人自為戰爾。」其械甲取之於敵、未嘗自脩。毎戰、不親臨行陣、有退者、巡已立其所、謂曰:「我不去此、為我決戰。」士感其誠、皆一當百。待人無所疑、賞罰信、與衆共甘苦寒暑、雖廝養、必整衣見之、下爭致死力、故能以少撃衆、未嘗敗。被圍久、初殺馬食、既盡、而及婦人老弱、凡食三万口。人知将死、而莫有畔者。城破、遺民止四百而已。 始、肅宗詔中書侍郎張鎬代進明節度河南、率浙東李希言・浙西司空襲礼・淮南高適・青州鄧景山四節度掎角救睢陽、巡亡三日而鎬至、十日而廣平王收東京。鎬命中書舍人蕭昕誄其行。時議者或謂:巡始守睢陽、衆六万、既糧盡、不持滿按隊出再生之路、與夫食人、寧若全人?於是張澹・李紓・董南史・張建封・樊晃・朱巨川・李翰咸謂巡蔽遮江・淮、沮賊勢、天下不亡、其功也。翰等皆有名士、由是天下無異言。天子下詔、贈巡揚州大都督、遠荊州大都督、霽雲開府儀同三司・再贈揚州大都督、並寵其子孫。睢陽・雍丘賜徭税三年。巡子亞夫拜金吾大将軍、遠子玫婺州司馬。皆立廟睢陽、歳時致祭。徳宗差次至徳以來将相功效尤著者、以顔杲卿・袁履謙・盧弈及巡・遠・霽雲為上。又贈姚誾潞州大都督、官一子。貞元中、復官巡它子去疾・遠子峴。贈巡妻申国夫人、賜帛百。自是訖僖宗、求忠臣後、無不及三人者。大中時、圖巡・遠・霽雲像于凌煙閣。睢陽至今祠享、號「雙廟」云。 許遠者、右相敬宗曾孫。寬厚長者、明吏治。初客河西、章仇兼瓊辟署剣南府、欲以子妻之、固辭。兼瓊怒、以事劾貶高要尉。更赦還。會禄山反、或薦遠於玄宗、召拜睢陽太守。遠與巡同年生而長、故巡呼為兄。 大暦中、巡子去疾上書曰:「孽胡南侵、父巡與睢陽太守遠各守一面。城陷、賊所入自遠分。尹子琦分郡部曲各一方、巡及将校三十餘皆割心剖肌、慘毒備盡、而遠與麾下無傷。巡臨命歎曰:『嗟乎、人有可恨者!』賊曰:『公恨我乎?』答曰:『恨遠心不可得、誤国家事、若死有知、當不赦於地下。』故遠心向背、梁・宋人皆知之。使国威喪衄、巡功業墮敗、則遠於臣不共戴天、請追奪官爵、以刷冤恥。」詔下尚書省、使去疾與許峴及百官議。皆以去疾證状最明者、城陷而遠独生也。且遠本守睢陽、凡屠城以生致主将為功、則遠後巡死不足惑。若曰後死者與賊、其先巡死者謂巡當叛、可乎?當此時去疾尚幼、事未詳知。且艱難以來、忠烈未有先二人者、事載簡書、若日星不可妄輕重。議乃罷。然議者紛紜不斉。 元和時、韓愈讀李翰所為巡伝、以為闕遠事非是。其言曰:「二人者、守死成名、先後異耳。二家子弟材下、不能通知其父志、使世疑遠畏死而服賊。遠誠畏死、何苦守尺寸地、食其所愛之肉、抗不降乎?且見援不至、人相食而猶守、雖其愚亦知必死矣、然遠之不畏死甚明。」又言:「城陷自所守、此與兒童之見無異。且人之将死、其臟腑必有先受病者。引繩而絶之、其絶必有處。今從而尤之、亦不達於理矣。」愈於褒貶尤慎、故著之。 南霽雲者、魏州頓丘人。少微賤、為人操舟。禄山反、鉅野尉張沼起兵討賊、拔以為将。尚衡撃州賊李廷望、以為先鋒。遣至睢陽、與張巡計事。退謂人曰:「張公開心待人、真吾所事也。」遂留巡所。巡固勸歸、不去。衡齎金帛迎、霽雲謝不受、乃事巡、巡厚加礼。始被圍、築臺募万死一生者、数日無敢應。俄有喑嗚而來者、乃霽雲也。巡對泣下。霽雲善騎射、見賊百歩内乃發、無不應弦斃。 子承嗣、歴涪州刺史。劉闢叛、以無備謫永州。 雷万春者、不詳所來、事巡為偏将。令狐潮圍雍丘、万春立城上與潮語、伏弩發六矢著面、万春不動。潮疑刻木人、諜得其實、乃大驚。遙謂巡曰:「向見雷将軍、知君之令嚴矣。」潮壁雍丘北、謀襲襄邑・寧陵。巡使万春引騎四百壓潮、先為賊所包。巡突其圍、大破賊、潮遁去。 万春将兵、方略不及霽雲、而彊毅用命。毎戰、巡任之與霽雲鈞。 姚誾者、開元宰相崇從孫。父弇、楚州刺史。誾性豪蕩、好飲謔、善絲竹。歴寿安尉。素善巡、及為城父令、遂同守睢陽。累加東平太守。 巡之遣霽雲・万春敗賊於寧陵也、別将二十有五:石承平・李辭・陸元鍠・朱珪・宋若虚・楊振威・耿慶礼・馬日昇・張惟清・廉坦・張重・孫景趨・趙連城・王森・喬紹俊・張恭默・祝忠・李嘉隠・翟良輔・孫廷皎・馮顔、其後皆死巡難、四人逸其姓名。 贊曰:張巡・許遠、可謂烈丈夫矣。以疲卒数万、嬰孤墉、抗方張不制之虜、鯁其喉牙、使不得搏食東南、牽掣首尾、豗潰梁・宋間。大小数百戰、雖力盡乃死、而唐全得江・淮財用、以済中興、引利償害、以百易万可矣。巡先死不為遽、遠後死不為屈。巡死三日而救至、十日而賊亡、天以完節付二人、畀名無窮、不待留生而後顯也。惟宋三葉、章聖皇帝東巡、過其廟、留駕裴回、咨巡等雄挺、盡節異代、著金石刻、贊明厥忠。與夷・斉餓踣西山、孔子稱仁、何以異云。
https://w.atwiki.jp/sangokushi-taisen_ds/pages/16.html
カード図鑑:涼 魏 蜀 呉 袁 他 【涼001】UC閻行 【涼002】R王異 【涼003】R賈詡 【涼004】R華雄 【涼005】C韓遂 【涼006】C魏続 【涼007】C牛輔 【No.180】UC厳氏 【涼008】UC高順 【涼009】C候成 【No.183】C胡車児 【涼010】SR蔡文姫 【涼011】C蔡邕 【No.186】UC徐栄 【No.188】UC鄒 【涼012】UC鄒 【No.189】C宋憲 【涼013】C臧覇 【No.191】C張繍 【No.192】R貂蝉 【涼014】SR貂蝉 【涼015】R張遼 【EX005】UC張遼 【涼016】UC陳宮 【涼017】SR董卓 【涼018】R董卓 【涼019】UC董白 【涼020】C馬玩 【涼021】R馬岱 【DS003】UC馬岱 【涼022】R馬超 【EX006】UC馬超 【No.198】C馬鉄&馬休 【涼023】UC馬騰 【涼024】UC龐徳 【涼025】C李傕&郭汜 【涼026】UC李儒 【涼027】SR呂姫 【涼028】SR呂布 【涼029】R呂布 【涼001】UC閻行 武将名 えんこう 閻行 韓遂の娘婿。剛勇で名を馳せた。韓遂と馬騰が戦った際、閻行は馬騰の息子で、同じく剛勇で名高い馬超と一騎討ちを演じた。閻行は矛で馬超を突き刺し、さらに折れた矛の柄で馬超のうなじを殴りつけ、かの馬超を殺す寸前まで追い込んだ。「貴様も腕におぼえがあるらしいな?」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力6 知力4 特技 計略 蚩尤の如く 自身の武力と移動速度が上がる。さらに計略効果中、突撃状態を続けることにより武力が上昇していく。 必要士気4 戦器 Illustration 原友和 【涼002】R王異 武将名 おうい 王異 益州刺史、趙昴の妻。知勇と節義を兼ね備えた烈女で、馬超との戦いで息子を人質に取られた際には、「恥辱をすすぐためなら、自分の首を失っても大した事ではない。まして子が何だ!」と決然として敵に挑み、これを打ち破った。「さあアンタ達、ここが踏ん張りどころだよ!」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力4 知力5 特技 防柵 魅力 計略 金城鉄壁 【ため計略】(計略ボタンを押してから一定時間で発動する。この計略は反計されない)自軍の城ゲージが回復する。 必要士気4 戦器 Illustration 安野モヨコ 【涼003】R賈詡 武将名 かく ぶんわ 深遠なる策士 賈詡 -文和- 董卓軍配下の参謀。董卓が呂布に殺されると、董卓の配下らを団結させ、長安から呂布を追放した。しかし李カクらにその才を危険視されたために逃亡。その後、張繍の参謀となり、奇策によって曹操をあと一歩のところまで追い詰めた。「ふっ、我が策に失策なし」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力4 知力8 特技 伏兵 計略 虚誘掩殺の計 範囲内の味方の武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気5 戦器 Illustration ファントム 【涼004】R華雄 武将名 かゆう なし 華雄 董卓配下の筆頭武将。身の丈9尺、体は虎、腰は狼、頭は豹、と例えられるほど恐ろしい容貌をしていた。董卓軍の先鋒として出陣し、反董卓連合の軍勢を打ち破り、敵の看板武将たちを次々と斬って、連合軍を恐慌に陥れた。「泣イテ許シヲ請エイ、漢王室ノ負ケ犬ドモガ!」 コスト 2 兵種 騎兵 能力 武力8 知力4 特技 勇猛 計略 悪鬼の暴剣 武力が大幅に上がる。ただし、効果中は自軍の城にダメージを受ける。 必要士気3 戦器 Illustration TOHRU 【涼005】C韓遂 武将名 かんすい ぶんやく 韓遂 -文約- 馬騰の義兄弟。若くして西方で名を上げ、30年もの長きに渡り幾度となく中央に乱を起こした反乱の士。馬超と手を組んで、覇者となりつつあった曹操を追い詰めるが、賈詡の離間の計によって敗れた。「さあさあ、西方の風を再び都に吹き荒らすぞ!」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力5 知力6 特技 計略 反逆の狼煙 自身の武力が大幅に上がる。発動時、戦場にいる自軍の部隊どれかひとつが撤退する。撤退する部隊がいない場合は効果が低い。 必要士気4 戦器 Illustration 三好載克 【涼006】C魏続 武将名 ぎぞく 魏続 呂布軍の武将。濮陽の戦いで曹操軍を撃ち破り、敗走する曹操をあと一歩で捕える所まで追い詰めた。しかし下邳の篭城戦で曹操に水攻めをくらい形勢不利と見るや、呂布軍の軍師であった陳宮を捕え、それを手土産に曹操に降った。「もう曹操んとこ行っちまおうぜ!どうよ宋憲?」 コスト 1 兵種 弓兵 能力 武力3 知力4 特技 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 Illustration 宮澤由佳 【涼007】C牛輔 武将名 ぎゅうほ 牛輔 董卓の娘婿。別働隊として地方に駐屯し李カク・郭汜に諸県の攻略をさせていた。董卓死後、呂布と戦って大敗を喫した牛輔は味方の陣地から、あらんかぎりの金銀財宝を奪って逃走した。しかしその逃亡中、自分の部下に捕まり、あえない最期を遂げた。「これだけありゃあワシの人生バラ色じゃあ!」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力3 知力3 特技 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気 3 戦器 Illustration 原友和 【No.180】UC厳氏 武将名 げんし 厳氏 呂布の妻。曹操に下邳の城を攻められた際、陳宮は呂布に城を出て敵の後方から突くよう進言したが、厳氏は夫が妻子を残して城を陳宮に預けることに猛反発し、呂布は陳宮の策を取り下げた。呂布処刑後、家族と共に許都に送られた。「ちょっと奉先、あたしを残して出て行く気?」 コスト 1 兵種 弓兵 能力 武力1 知力6 特技 防柵 魅力 計略 悪女の劇毒 範囲内の敵の兵力を徐々に下げる。この効果は城に入ることで消滅する。 必要士気5 戦器 Illustration 小室和生 【涼008】UC高順 武将名 こうじゅん 高順 独立後の呂布配下の筆頭武将。敵陣を必ず落とすという「陥陣営」と呼ばれる精鋭部隊を率いて、敵軍を恐怖に陥れた。劉備、夏侯惇の軍を次々と破るも、最期は降伏を良しとせず、呂布と運命を共にした。「どけどけい、我らの行く手、阻めると思うてか!」 コスト 2 兵種 騎兵 能力 武力8 知力2 特技 計略 陥陣営 武力と城攻撃力と防柵攻撃力が上がるが、効果中は強制的に前進する。上昇する武力は自軍の城ゲージが少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 Illustration ファントム 【涼009】C候成 武将名 こうせい 候成 呂布の騎将。曹操軍に下邳城を攻められ、籠城の最中、食客に盗まれた15頭の馬を自ら兵を率いて取り戻した。候成は士気を上げるためその祝いの席を設けたが、呂布はこれに怒り候成を鞭打ちに処した。候成は呂布に見切りをつけ、曹操に降った。「魏続よ、俺は呂布にゃあ、ほとほと愛想が尽きたぞ」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力4 知力1 特技 計略 強化戦法 自身の武力が上がる。 必要士気4 戦器 Illustration 川瀬圭一 【No.183】C胡車児 武将名 こしゃじ 胡車児 張繍の部下で、軍内で随一の武勇を誇った。怪力の持ち主で、500斤の重量を背負って一日700里を歩いたと言われている。張繍が曹操に謀反を働いた際、曹操の護衛に当たっていた典韋の鉄戟を盗んだ。「これで奴は裸同然。悪来・典韋恐るるに足らず!」 コスト 1.5 兵種 歩兵 能力 武力7 知力1 特技 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 Illustration 騎崎サブゼロ 【涼010】SR蔡文姫 武将名 さいぶんき 囚われの才女 蔡文姫 漢の重鎮・蔡邕の娘。都が混乱した際に勾奴に攫われるも、王の側室として不遇ではない生活を送った。二人の子供を儲けるが、曹操によって救出された際に生き別れとなり、悲しみに暮れたという。「生きようとも思わぬのに救われ、我が子を泣かすことになろうとは。なんと儚き世の定めか……」 コスト 1 兵種 弓兵 能力 武力2 知力7 特技 計略 望郷の歌 範囲内の敵の兵力を除々に下げる。この効果は城に入ることで消滅する。また、効果中は自軍の城にダメージを受ける。 必要士気5 戦器 Illustration 中村博文 【涼011】C蔡邕 武将名 さいよう はくかい 蔡邕 -伯喈- 後漢を代表する学者。隠棲していたが、董卓が権力を掌握すると恫喝されやむなく出仕した。しかし董卓が呂布に討たれた際、厚遇され恩義を感じていた蔡邕は涙ながらに悲しんだという。司徒・王允はこれを怒り投獄し、史書を記そうとする蔡邕を処刑した。「この国の行く末、もう私にも見通せぬ……」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力1 知力8 特技 防柵 計略 封印の計 範囲内の敵は計略が使用できなくなる。 必要士気3 戦器 Illustration 河崎淳 【No.186】UC徐栄 武将名 じょえい 徐栄 董卓軍の武将。反董卓連合軍に属する孫堅に勝利した。さらに曹操とも戦ってこれを撃ち破り、その戦いで敗走する曹操を追撃し、曹操の肩を矢で射抜いた。しかし助勢に駆けつけた夏侯惇に突き殺された。「待て待て待てーい!奴の首はワシのもんじゃあ!」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力6 知力4 特技 計略 悪逆無道 武力が上がる。ただし効果中は自軍の城にダメージを受ける。 必要士気3 戦器 Illustration 飯田岳士 【No.188】UC鄒 武将名 すう 鄒 元董卓軍の張済の妻。張済が死んだ後、甥の張繍の元に身を寄せていた。曹操が張繍を降伏させた際、曹操は鄒をいたく気に入り、毎晩自陣に呼び寄せた。張繍はこれに怒り反乱を起こし、曹操を追い詰めた。「魏の曹操すら私に夢中。男なんて単純な生き物ね」 コスト 1 兵種 歩兵 能力 武力2 知力6 特技 伏兵 魅力 計略 誘惑 戦場にいる敵部隊のうち、最も武力の高い部隊の武力と移動速度と知力を下げる。 必要士気5 戦器 Illustration 唯登詩樹 【涼012】UC鄒 武将名 すう 魔性の色香 鄒 張繍の叔父・張済の妻。その類い稀なる美貌はあらゆる男を虜にする魔性の色香を放っており、張繍討伐に訪れた曹操ですら彼女にすっかり骨抜きにされ、危うく張繍に寝首をかかれるところだった。「女の色香はどんな武器よりも強いの。おわかり?」 コスト 1 兵種 歩兵 能力 武力2 知力7 特技 伏兵 魅力 計略 堕落の舞い 【舞い】(使用すると移動できなくなるが、自身が撤退するまで効果が続く)両軍の士気ゲージ最大値が下がる。 必要士気5 戦器 Illustration 藤谷 【No.189】C宋憲 武将名 そうけん 宋憲 呂布軍の武将。下邳の篭城戦で自軍に勝機の無い事を悟り、侯成、魏続と共に曹操に投降。一説では、呂布を捕えて曹操に降ったとも言われている。その後、曹操軍にて官渡の戦いに従軍するも、袁紹軍の顔良に斬り殺された。「土産イル。俺アイツ土産ニスル、侯成ドウスル?」 コスト 1 兵種 歩兵 能力 武力4 知力3 特技 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 Illustration 飯田牧子 【涼013】C臧覇 武将名 ぞうは せんこう 臧覇 -宣高- 泰山郡の山賊の頭目。無実の罪で獄に入れられた父を、若干18歳で奪還したことで名を馳せた。呂布と曹操が対峙した際、山賊を引き連れ呂布に協力した。呂布の死後、魏に降り、対袁紹戦などで活躍。曹叡の代まで仕えた。「野郎ども!身包み剥ぐのは勝ってからじゃあ!」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力3 知力4 特技 勇猛 計略 火事場の馬鹿力 自身の武力が上がる。その効果は自軍の城ゲージが少ないほど大きい。 必要士気4 戦器 Illustration 青木梨恵 【No.191】C張繍 武将名 ちょうしゅう 張繍 董卓亡き後、曹操に降伏したが、曹操が叔父張済の未亡人である鄒を妾にしたことに憤慨し反逆。あと一歩のところまで追い詰めた。最終的には賈詡の薦めで曹操についた。「ふははは!奴等油断しまくっとるぞぉ~!」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力5 知力5 特技 伏兵 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 Illustration 絵楽ナオキ 【No.192】R貂蝉 武将名 ちょうせん 貂蝉 その美貌で董卓と呂布という二人の豪傑を手玉に取った絶世の美女。王允が養女として引き取り、歌や踊りを教え込んだ。董卓の悪政に悩む王允に自らを犠牲にする策を提案する。貂蝉は酒宴の席で歌と舞を披露し、見事に董卓を魅了したと言われている。「父様、私の舞いで董卓と呂布を虜にしてみせるわ」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力1 知力5 特技 防柵 魅力 計略 破滅の舞い 【舞い】(使用すると移動できなくなるが、自身が撤退するまで効果が続く)自城と敵城にダメージを与え続ける。 必要士気5 戦器 Illustration 曽田正人 【涼014】SR貂蝉 武将名 ちょうせん 傾国の美女 貂蝉 楊貴妃などと並び中国四大美女に称される絶世の美女。謀略を成すため呂布の側室となり、巧みな誘惑で呂布に主君・董卓を討たせることに成功した。「傾国の美女」という言葉があるが、まさに貂蝉はその美貌によって、国を傾けることに成功したのだった。「さあ呂布様、私と全てを手に入れましょう……」 コスト 1.5 兵種 弓兵 能力 武力2 知力5 特技 魅力 計略 傾国の舞い 【舞い】(使用すると移動できなくなるが、自身が撤退するまで効果が続く)敵城にダメージを与え続ける。 必要士気7 戦器 Illustration 戸橋ことみ 【涼015】R張遼 武将名 ちょうりょう ぶんえん 張遼 -文遠- 呂布配下の武将。人並み外れた武力の持ち主で、始め丁原に仕えていたが、何進、董卓を経て呂布の配下となり、若くして高順と並ぶ呂布軍の看板武将となった。呂布が敗れて降伏した際には、潔く死を選ぼうと曹操を罵倒したが、生かされて配下となった。「我が武勇、我が馬術、呂布殿以外に勝る者なし!」 コスト 2 兵種 騎兵 能力 武力7 知力6 特技 計略 人馬一体 武力と移動速度が上がり、槍の迎撃ダメージを受けなくなる。 必要士気3 戦器 Illustration 獅子猿 【EX005】UC張遼 武将名 ちょうりょう ぶんえん 張遼 -文遠- コスト 2 兵種 騎兵 能力 武力7 知力4 特技 勇猛 計略 猪突猛進 必要士気3 戦器 Illustration 寺田克也 【涼016】UC陳宮 武将名 ちんきゅう こうだい 反逆の謀士 陳宮 -公台- 呂布の軍師。最初は曹操に仕え曹操軍随一の参謀を自負していたが、新参の荀彧、程昱の台頭や曹操の徐州での大虐殺への失望から、曹操を裏切り呂布についた。最期は呂布と共に曹操に捕えられ処刑されたが、曹操ははその智謀を惜しみ涙したと言われている。「曹操、この狼どもを御して、貴様を倒す!」 コスト 1.5 兵種 弓兵 能力 武力4 知力7 特技 防柵 計略 破滅的な献策 最も武力の高い味方部隊の武力を上げる。ただし、効果中は自軍の城にダメージを受ける。 必要士気3 戦器 Illustration ファントム 【涼017】SR董卓 武将名 とうたく ちゅうえい 亡国の独裁者 董卓 -仲穎- 魔王とあだ名された、後漢末最大の奸雄。黄巾の乱鎮圧後、西涼の刺史となり力を蓄え、何進の命を利用して大群を率いて上洛、帝を手中に収め権力を握った。その後、暴君として頂点に立ち、呂布に討たれるまで悪逆の限りを尽くし、漢王室を破滅へと導いた。「暴掠、暴政、暴乱。全ては覇者に許された特権よ」 コスト 2 兵種 騎兵 能力 武力7 知力7 特技 魅力 計略 暴虐なる覇道 範囲内の味方は武力と移動速度が上がる。ただし効果中は、効果を受けている部隊が多いほど自軍の城にダメージを受ける。 必要士気5 戦器 凶馬「刑天」 突撃威力、突撃発動 Illustration 一徳 【涼018】R董卓 武将名 とうたく ちゅうえい 魔王 董卓 -仲穎- 後漢王朝を終焉に導いた魔王。献帝を擁立して絶対的な権力を握ると、苛烈な法令や残虐な刑罰を次々に発して、幾千幾万の罪無き人々を問答無用で惨殺した。董卓の非道を極めた暴虐に人々の恐怖の悲鳴は天を劈き、洛陽は阿鼻叫喚の地獄と化した。「漢王朝が400年。すべてワシが喰ろうてくれよう」 コスト 2.5 兵種 騎兵 能力 武力8 知力7 特技 魅力 計略 人馬の大号令 範囲内の味方の騎兵の武力と移動速度が上がり、槍の迎撃ダメージを受けなくなる。 必要士気7 戦器 Illustration RARE ENGINE 【涼019】UC董白 武将名 とうはく 董白 漢王朝崩壊の主役であり、権力を自らの手中に収めてからは暴虐と贅の限りを尽くした魔王・董卓の孫娘。まだ幼い少女の段階で祖父・董卓から自分の領地を与えられるなど、この世の考えうるすべての物を与えられて育った。「覚悟おしッ!おじいさまに言いつけてやるッ!」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力2 知力5 特技 魅力 計略 退路遮断 範囲内の敵を自城へ戻れなくする。 必要士気2 戦器 Illustration 音楽ナスカ 【涼020】C馬玩 武将名 ばがん 馬玩 関中独立軍閥で、韓遂配下の武将。馬超が曹操に反旗を翻した際、共に立ち上がったが、馬超が賈詡の離間の計にはめられ韓遂を疑いだしたので、馬玩は主君を守るため馬超殺害を計画した。しかし、その密談中に馬超の急襲に遭い、馬玩は韓遂を守り殉死した。「義理とか人情とか言ってる場合じゃねえだろう?」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力5 知力5 特技 計略 火事場の馬鹿力 自身の武力が上がる。その効果は自軍の城ゲージが少ないほど大きい。 必要士気4 戦器 Illustration 風間雷太 【涼021】R馬岱 武将名 ばたい 忠義の臣 馬岱 馬騰の甥。馬騰とともに都へ赴くが、曹操によって馬騰が殺されたため、旅商人の格好をして脱出した。西涼へと戻った馬岱は馬超とともに馬騰の仇を討つため曹操と戦うが、破れて馬超に従い蜀に降った。後に諸葛孔明に従い南蛮征伐、北伐で活躍した。「おのれ曹操、我らが一族の恨みを思い知れ!」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力6 知力5 特技 計略 不屈の忠義 兵力が回復する。 必要士気3 戦器 Illustration 西山優里子 【DS003】UC馬岱 武将名 ばたい 馬岱 馬騰の兄の子で馬超とは従兄弟。馬騰が曹操に呼び出されたときに策と見破り諌めたが、聞き入れられず馬騰は殺されてしまった。劉備が蜀に侵攻した際に馬岱は張魯からの援軍として戦い、魏延に矢傷を負わしている。このことが後々の因縁に繋がっている。「馬一族は私が守り続ける!」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力5 知力5 特技 伏兵 計略 看破 【反計】(効果範囲内の敵が計略を使用してきたときのみ使用可能。反計を反計することはできない)敵の計略の発動を無効化する。 必要士気2 戦器 Illustration 石渡太輔ARCSYSTEM WORKS 【涼022】R馬超 武将名 ばちょう もうき 西涼の英雄 馬超 -孟起- 西涼の雄、馬騰の息子。勇猛で名高く、郭援、高幹の反乱討伐では足に深い矢傷を負ったが、傷を袋で包み何事も無かったかの如く戦い続けた。彼の実力は、その後劉備軍に加わった際、若くして五虎大将軍に名を連ねたことからも伺い知ることができる。「どうしたどうした!貴様等それで終わりか!?」 コスト 2.5 兵種 騎兵 能力 武力9 知力5 特技 勇猛 計略 全軍突撃 範囲内の味方の騎兵すべての武力と移動速度と突撃ダメージが上がる。 必要士気7 戦器 Illustration せがわまさき 【EX006】UC馬超 武将名 ばちょう もうき 西涼の英雄 馬超 -孟起- コスト 2.5 兵種 騎兵 能力 武力8 知力6 特技 計略 全軍突撃 必要士気7 戦器 Illustration Wolfina 【No.198】C馬鉄&馬休 武将名 ばてつ ばきゅう 馬鉄&馬休 馬騰の息子で、馬超の弟。父とともに朝廷に入り、馬鉄は騎都尉、馬休は奉車都尉に任じられる。後に献帝の恩に報いようと曹操誅殺計画に荷担したが、発覚して処刑された。「休の槍は、まだまだ甘いなあ!」「うるせえな、鉄こそ馬首の返しがなってねえ!」 コスト 1 兵種 騎兵 能力 武力3 知力3 特技 計略 人馬一体 武力と移動速度が上がり、槍の迎撃ダメージを受けなくなる。 必要士気3 戦器 Illustration 騎崎サブゼロ 【涼023】UC馬騰 武将名 ばとう じゅせい 馬騰 -寿成- 西涼の太守。馬一族の頭領。漢王朝への厚い忠誠心を持っており、献帝の密勅に協力して二度も曹操を誅殺しようとした。しかし、これが発覚したため馬騰は処刑されてしまい、長男である馬超は仇討ちのために兵を挙げた。「天下は天子のもの!お主のものではないわ!」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力5 知力5 特技 魅力 勇猛 計略 西方の乱 撤退中の味方を1部隊復活させる。さらに復活した部隊の移動速度を上げ、武力を大幅に上げる。ただし、効果が終わるとその部隊は撤退する。 必要士気4 戦器 Illustration ファントム 【涼024】UC龐徳 武将名 ほうとく れいめい 龐徳 -令明- 馬騰軍配下随一の勇将。馬騰の死後は、馬超の腹心として共に挙兵した。曹操は龐徳を配下にしたく、疲れさせて捕らえようと夏侯淵、徐晃、許褚といった魏軍の猛将を繰り出すが、龐徳は平然と互角に打ち合った。曹操に敗れたのち、説得に応じ魏に降った。「我らが西涼の武、必ずや都へと到らん!」 コスト 2 兵種 騎兵 能力 武力8 知力3 特技 計略 猪突猛進 武力と移動速度が大幅に上がる。ただし、発動時に部隊が向いている方向に強制的に移動する。 必要士気3 戦器 Illustration 牧野卓 【涼025】C李傕&郭汜 武将名 りかく かくし 李傕&郭汜 董卓の配下で幼馴染。二人して粗暴な性格であった。董卓死後は、ともに呂布を攻めて長安から追放した。だがその後、政権を握りながらも欲のままに行動。最後は仲たがいし、歴史の影に消えていった。「はっはー、これで天下は俺のもんよ、俺の!」「何もかも、俺の思うがままだぜ、俺の!」 コスト 1.5 兵種 弓兵 能力 武力6 知力3 特技 計略 卑屈な急襲 武力が上がる。この効果は敵軍の士気が少ないほど大きい。 必要士気3 戦器 Illustration ファントム 【涼026】UC李儒 武将名 りじゅ 李儒 董卓の娘婿。董卓軍の参謀で、非情・冷酷・残虐を地で行く性格。董卓が献帝を擁立した際には、後顧の憂いを断つため先帝の弘農王とその母の何太后を毒殺した。軍師としても優秀で、徐栄に計略を授けて曹操の軍を打ち破った。「王も太后も曹操も、逆らう者は皆消してしまえい」 コスト 1 兵種 弓兵 能力 武力1 知力8 特技 防柵 計略 暗殺の毒 範囲内の敵の兵力を徐々に下げる。この効果は城に入ることで消滅する。 必要士気4 戦器 Illustration 夢路キリコ 【涼027】SR呂姫 武将名 りょき 呂姫 呂布の娘。当時、同盟関係にあった呂布と袁術は、その絆を深めるべく息子と娘を結婚させようとした。しかし、呂布の血をひく彼女が「はい、わかりました」と素直に従うわけがなく、拒絶して暴れたため逆に戦争へと発展してしまったという。「可愛いだけじゃ、乱世は生きていけないよ!」 コスト 1.5 兵種 騎兵 能力 武力5 知力3 特技 魅力 勇猛 計略 天下無双・改 自身の武力が大幅に上がる。さらに兵力が回復し、移動速度が上がる。 必要士気5 戦器 Illustration 獅子猿 【涼028】SR呂布 武将名 りょふ ほうせん 呂布 -奉先- 圧倒的な戦力で無敵の強さを誇ったため、飛将と呼ばれ匈奴からさえも恐れられた。騎都尉の丁原に仕えていたが、董卓の誘いに乗って丁原を裏切る。そのとき董卓より贈られた「赤兎馬」に乗り、鬼神の如く闘う様は「人中の呂布、馬中の赤兎」と呼ばれた。「赤兎よ、奴等に絶対の死をくれてやろうぞ!」 コスト 3 兵種 騎兵 能力 武力10 知力2 特技 勇猛 計略 赤兎咆哮 武力と移動速度が大幅に上がる。ただし、発動時に部隊が向いている方向に強制的に移動する。 必要士気4 戦器 Illustration 原友和 【涼029】R呂布 武将名 りょふ ほうせん 飛将軍 呂布 -奉先- 稀代の豪傑。董卓の護衛として虎牢関を守備し、劉備、関羽、張飛の三人を相手にしても一歩も引けを足らなかった。董卓からの信頼も厚かったが、ある時些細な事で董卓の怒りを買い、殺されそうになると董卓を逆に殺害した。「殺られるまえに殺る。これが乱世の習いだろう?」 コスト 2.5 兵種 弓兵 能力 武力10 知力2 特技 勇猛 計略 飛将の神弓 戦場にいる味方は全て撤退して、その撤退した部隊の武力が大きいほど、武力が上がる。一定以上武力が上がると、さらに射程距離が上がり麻痺矢の効果を持つ。 必要士気4 戦器 Illustration せがわまさき これまで - 人が閲覧しました。 昨日は - 人が閲覧しました。 今日は - 人が閲覧しました。
https://w.atwiki.jp/22shisakki/pages/146.html
576.明人説部 徐禎卿翦勝野聞,明祖擒張士誠後,斥江浙行省參政周伯琦曰:「元君寄汝以腹心,乃資賊爲亂耶!」先迎之,三日大醉,以酬其勞而戮之。按元史,平江破後,伯琦歸故郷,以良死,初未嘗被戮也。野聞又云,士誠司徒李伯昇先以國情輸我師,帝亦以爲姦臣而誅之。然湖州之破,滿城皆降於明,獨伯昇不肯,曰:「張太尉待我厚,何忍爲此。」不得已,亦降。及平江將陷,伯昇又使人説士誠以保身全家爲上策。則其惓惓於故主,尚非恝然。是以既降後,命仍故官。洪武七年,尚命伯昇掌屯田山東、北平等處。後又兼懿文太子同知詹事院事。又命將兵討平湖廣慈利蠻。呉良傳,伯昇又隨鄧愈討廣西叛蠻。則伯昇初未被誅也。而野聞以爲被戮,果何所據耶?又王錡寓圃雜記,元有全某者,乃宋淵聖皇帝之母舅,在元學佛於土番,號合尊大師,有子亦從其教,後元主坐以説法聚衆,皆殺之。按淵聖乃欽宗追尊之號,至元朝已百六十餘年,何得尚存?合尊大師,乃德祐帝也,蓋全某係德祐帝母全太后之兄弟耳,而僞爲淵聖,可謂屯毛不辨。又德祐帝有子曰完普,亦出家爲僧,然未有殺害之事。此明人小説中最陋者。 前頁 『廿二史箚記』巻三十六 次頁 明代科場之弊 576.明人説部 長隨
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/612.html
このページは数あるニコニコ歴史戦略ゲー動画の登場人物について、各動画内での列伝をまとめていくものとして用意しました。 主役級の活躍を見せた人物はもとより、名脇役、好敵手からネタ☆キャラまで幅広く紹介されるページになることを願います。 ここでは三国志の人物について扱います。 参考用リンク先(需要のありそうなものがあれば随時追加推奨) Category 三国志 - Wikipedia :史実についての参考リンク 幻想水滸伝・三国志を知らないけど、興味ある人の為の解説サイト ニコニコ歴史戦略ゲー 武将紹介 公開マイリスト :史実武将紹介動画 武将別解説 - 三国編 :iM@S架空戦記シリーズ補完wikiより三国武将紹介 『三国志の登場人物の一覧』 :ニコニコ大百科での三国志人物項目一覧 武将別伝(三国志) ア行 ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ キ ク ケ コ マ行 サ行 サ シ ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ラ リ ル レ ロ ナ行 ワ行 趙雲(チョウウン) 張角(チョウカク) 張嶷(チョウギョク) 張紘(チョウコウ) 張郃(チョウコウ) 張繍(チョウシュウ) 張昭(チョウショウ) 張松(チョウショウ) 貂蝉(チョウセン) 趙範(チョウハン) 張飛(チョウヒ) 張宝(チョウホウ) 張翼(チョウヨク) 張遼(チョウリョウ) 張梁(チョウリョウ) 張魯(チョウロ) 陳宮(チンキュウ) 陳羣(チングン) 陳寿(チンジュ) 陳到(チントウ) 趙雲 (チョウウン) [部分編集] (?~229)字は子龍(シリュウ)。袁紹・公孫瓚と渡り歩き、劉備に仕える。劉備から「一身これ胆なり」と称賛された猛将。長坂の戦いでは敵の大軍から劉備の息子・阿斗(劉禅)を守り、漢中攻防戦では空城の計を用いて魏軍を撃破した。 演義では五虎将の一人として関羽や張飛に次ぐイメージが有るが、実際はさほど高い地位ではなかった(他の四人や魏延より下)。 日本では美青年として描かれやすい一方、中国では老将のイメージが強いとも言う。 三國志IX 統率 88 武力 96 知力 78 政治 72 三國志11 統率 91 武力 96 知力 76 政治 65 魅力 81 洞察/槍兵S,弩兵S,騎兵S 関連タグ: 【趙雲】 ニコニコ大百科: 『趙雲』 東方のなく洞窟☆すた三国志 【三國志Ⅸ】 +劉備軍→劉エン軍→孫権軍、プレイヤー戦力と長く戦い続けている敵将。紙芝居参加経験あり、キャラブレイクあり とあるキャラの幻術に巻き込まれたことから巨乳好きという設定がなされ、紙芝居参加資格を得た。 また彼に引きずられる形で五虎将軍全員が何らかの女性に対するそれなりに特異な嗜好を持つことになってしまった。 貧乳揃いのこなた軍には大いに不満を持っており、とくに東方キャラ四季映姫との相性は最悪である。 夢幻想列伝 Border of fate 【三國志Ⅸ】 +序盤から登場、プレイヤー勢力の霊夢軍に登用される、縛りにより防衛戦のみに参加、紙芝居参加経験あり、キャラブレイクなし 東方キャラ八雲紫直属の将として防衛戦に活躍する。 歴戦の名将らしく、東方キャラメインの霊夢軍にあってなお光り輝く活躍が目立つ 呂布シリーズ +逆襲終盤から登場。大魔王の逆襲から一軍、キャラブレイクあり? 逆襲、復讐のころから登場していたが大魔王の逆襲から一軍として目立ってきた 最初は忠実に仕事をこなす印象だったが、中盤で顔グラがF1レーサーに変化すると性格が変わり、毒舌家な一面も見せるようになった 帝国三国志 【三國志Ⅸ】 +主役級。銀河帝国。暗黒卿キャラ 銀河帝国の信者、シリーズ最強の武将と謳われる暗黒卿 冷酷でプライドが高く、全く容赦をしないことから敵にも味方にも恐れられている しかし、一部のキャラに対する対応が全然違うため、批判を浴びることも 中華武将祭り 【三國志Ⅸ】 +本家劉備軍配下 スペランカー256週の猛者だがWiiより価値が低いらしい。某大乱闘ではヒゲの配管工が持ちキャラ。 鋼鉄超雲:変質者 艶義超雲:生真面目 蒼天超雲:もののふ 恋姫超雲:ふりーだむ 上へ 張角 (チョウカク) [部分編集] (?~184)原始道教の一つ「太平道」の教祖。元は官僚。政争で混乱の極みに達した後漢王朝の打倒を叫んで数十万の信徒を率い大規模な反乱を起こすが、その最中に病没した。その後反乱は鎮圧されるが、この「黄巾の乱」をきっかけに後漢の崩壊が始まることになる。 三國志IX 統率 92 武力 26 知力 87 政治 82 三國志11 統率 86 武力 25 知力 86 政治 80 魅力 98 鬼門/槍兵A,戟兵S,弩兵A,兵器A ニコニコ大百科: 『張角』 魏国が東方勢にもっこもこ 【三國志Ⅸ】 +スタート時点ですでに故人 魏国に破れ、失意のうちに亡くなっていたものと思われるが、東方キャラ西行寺幽々子によって現世への帰還を果たす。 彼の復活を聞きつけ、多くの元太平道信者が彼の元に集結した。 幻想三国志 【三國志Ⅸ】 +何らかの事情に巻き込まれて失踪、中盤になるまで本格的出番なし、とある登録キャラたちと共に登場 事情により太平道から一時離れていたが、最近帰還する。 もはや革命の意志をなくし、暴徒と化してしまった太平道に複雑な思いを抱いている。 戦いの最中に病死する。 魔理沙の幻想郷帰還誌 【三國志11PK】 +魔王軍配下 無能な弟達に悩まされつつも民の救済に勤しんでいたが、行き倒れていた異国風の男を助け、持っていた妖術書を読んでしまったのが運の尽き。 おそらくSANチェックに失敗して発狂してしまったものと思われる。 赤兎三国志 【三國志Ⅸ】 +序盤の敵、後に赤兎軍武将、太平道教祖、キャラブレイクなし 西涼の地で太平道を広めようと奮戦するものの赤兎軍の前に敗れた。 赤兎軍に降った後は太平道を解散しようとするもののほとんどの信者は彼と共に赤兎軍に残ることを選んだ。 のちに抜擢の育成を任され、己が智の全てを注ぎ込んだ怪物を誕生させる。 天公将軍張角の挑戦 【三國志Ⅸ】 +主人公 ある朝、目覚めると烏丸の地に放り込まれていた。 カオスな登録勢を纏め上げ、中華統一を目指す。 何故か兵法は妖術のみ、それも熟練度50に変更されている。そのため、妖術を使っても3桁のダメージしかない。 更にどんどん濃いキャラクターに押され、キャラが消え始めている。 というより、弟のほうが計略熟練が高い(70話)という点で既に問題がある。 関連動画―――― 組曲「黄巾」 :替え歌(歌唱つき) 上へ 張嶷 (チョウギョク) [部分編集] (?~254)字は伯岐(ハクキ)。蜀の武将。貧しい家の生まれで、叩き上げで将軍となる。西南夷や羌族を平定し、太守として統治手腕を発揮、現地の異民族を心服させた。彼が成都に帰還すると、恩顧を受けた住民たちは大いに悲しんだという。軍事・内政ともに優れた名将。 演義では脇役。西南夷平定は諸葛亮の功績にされた。姜維の北伐に病身を押して従軍、段谷で姜維を救い出して壮絶な戦死を遂げる。 三國志IX 統率 76 武力 73 知力 75 政治 76 三國志11 統率 79 武力 72 知力 74 政治 77 魅力 76 踏破/槍兵A,戟兵A,弩兵A,兵器A ニコニコ大百科: 『張嶷』 上へ 張紘 (チョウコウ) [部分編集] (?~?)字は子綱(シコウ)。呉の重臣で「江東の二張」の一人。内政だけではなく外交にも長け、孫策死後の混乱に乗じて孫氏勢力の討伐を目論む曹操を説得してやめさせたこともある。孫権の時代、死の前後に秣陵への遷都を進言した(秣陵は建業と改められた)。 三國志IX 統率 31 武力 11 知力 88 政治 96 三國志11 統率 24 武力 22 知力 86 政治 95 魅力 82 築城/兵器A 上へ 張郃 (チョウコウ) [部分編集] (?~231)字は儁乂(シュンガイ)。韓馥→袁紹と仕えたが、官渡の戦いでは進言が容れられず、高覧と共に責任をなすりつけられたため、曹操に降伏。以後は戦功を重ね、対蜀戦線の重鎮として活躍した。諸葛亮の北伐の際には司馬懿に従って馬謖の軍を殲滅する功績を挙げるが、退却する蜀軍を追撃する中、伏兵にかかり戦死した。 吉川三国志では三度も戦死している(汝南で関羽に、長坂で趙雲に、木門道で孔明らに)。これをネタにされることも。 「張コウ」「張合β」と書かれることもある。「張コウ」表記は張紘ではなく彼を指す。 三國志IX 統率 89 武力 90 知力 54 政治 53 三國志11 統率 90 武力 89 知力 69 政治 57 魅力 71 昂揚/槍兵A,騎兵S,兵器A 天公将軍張角の挑戦 【三國志ⅨPK】 +韓馥軍配下。のちに張角軍主力 韓馥軍の配下として登場。星熊勇儀とコンビで出陣し、高威力の突撃で張角軍を大いに苦しめた。 韓馥軍滅亡後は張角軍の主力となり、勇儀、顔良、馬岱、兪瑁(抜擢武将)と共に河北最強と謳われる騎馬隊を結成。 部隊長として活躍している。 上へ 張繍 (チョウシュウ) [部分編集] (?~207)張済の甥。馬術に秀で軍才に優れ、董卓に仕えた。後に曹操に降伏するが、曹操が張済の未亡人を側室にしたことなどから両者の間に遺恨が生じ、賈詡の進言で曹操を襲撃。曹昂や典韋を討ち取った。 後に再び曹操に帰順。官渡の戦い、袁譚攻めなどで功績を上げた。烏丸征討中に病死した。 三國志IX 統率 82 武力 72 知力 62 政治 49 三國志11 統率 80 武力 73 知力 60 政治 45 魅力 59 騎将/騎兵S 騎将張繍の野望 【三國志Ⅸ】 +張繍軍(プレイヤー勢力)君主 主人公の1人。君主であるものの、衣玖の仕官を秘密にされる(反応が見たかったから)、率先して輸送に回される(実際効率は良いが)、備品整理をやらされるなど割と遊ばれている。 ただ根が真面目なためか雑用を任されることに関しては本人もまんざらでない様子も見られる。マメな人・家政婦・校長・ヴァンプ様(視聴者コメント評) その様な扱いを含めて、「部下の事を信頼し影で支えることに専念する度量の大きい君主像」としても捉えられる。 何よりも「あの賈詡」と篤い信頼関係を築いていることが一番すごいことかもしれない。 「ホント頼むよ、君主の立場無いから!」「善処します」「………」 上へ 張昭 (チョウショウ) [部分編集] (156~236)呉の重臣で「江東の二張」の一人。字は子布(シフ)。孫策が全面的に信頼した人物で、孫策死去の際、彼から「孫権に能力がなければ、君が政権を取れ」と言われたほどだった。 典型的な頑固者、孫権とはたびたび子供のような喧嘩やコントのようなやりとりを繰り返した。呉の重鎮だったが、孫権との相性もあってか丞相にはなれなかった。 三國志IX 統率 41 武力 4 知力 85 政治 97 三國志11 統率 33 武力 3 知力 84 政治 97 魅力 80 変態記 【三國志Ⅹ】 +孫策軍武将 孫堅時代からの家臣ということになっている。 殺人鬼に妄想白目にDQNにホモにマゾに弱虫などどうしようもない人間ばかりの孫策軍の中で唯一まともな人間と、本来の歴史を知っている四季映姫は述べていた。 どうしようもない孫策軍を、亡き前君孫堅(これも実質裸の大将だったのだが)との思い出を懐かしみつつなんとか維持している。 八雲紫軍加入後も数少ないまともな人間として頼りにされている。 老人だが、平和と正義のためならば鬼にもなり、暴君袁術を始末した。 関連動画―――― 張昭動画 輔呉将軍 :替え歌(歌唱つき) 上へ 張松 (チョウショウ) [部分編集] (?~213)劉璋の臣。字は史実では子喬(シキョウ)、演義では永年(エイネン)。醜い容貌の持ち主と言われ、それゆえ顔グラも毎回凄いことになっている。劉備に益州を献上しようと策を練るが、兄の密告により劉璋にばれて捕まり殺された。 「チョロ松」の愛称でしたしまれる。 三國志IX 統率 12 武力 3 知力 87 政治 81 三國志11 統率 15 武力 6 知力 88 政治 82 魅力 19 秘計 ニコニコ大百科: 『張松』 上へ 貂蝉 (チョウセン) [部分編集] (演義の登場人物)演義に、司徒・王允の養女として登場する絶世の美女。「美女連環の計」により呂布と董卓の仲を割いた。史実において、呂布が董卓の侍女と密通していたとあり、その話が元になっていると思われる。 三國志IX 統率 64 武力 27 知力 86 政治 73 三國志11 統率 10 武力 26 知力 81 政治 65 魅力 96 傾国 関連タグ: 【貂蝉】 呂奉先の野望 【革新PK】 +呂布軍(プレイヤー勢力)初期武将。 呂布軍(プレイヤー勢力)初期武将。 グラフィックは微妙に寄せて上げてある。篭絡の計はさすが。 上へ 趙範 (チョウハン) [部分編集] (?~?)桂陽郡太守。いわゆる「荊州四英傑」の一角。劉備が攻めてくると配下の陳応、飽隆に押され一度は劉備と戦う。しかし二人が戦死すると即座に城を明け渡して降伏した。趙雲に兄嫁を紹介して結婚を勧めたが、激怒した趙雲にボコボコにされた。 プレイ動画では「趙さん」と呼ばれる。 三國志IX 統率 18 武力 20 知力 35 政治 61 三國志11 統率 28 武力 21 知力 32 政治 58 魅力 56 ニコニコ大百科: 『趙範』 上へ 張飛 (チョウヒ) [部分編集] (?~221)劉備の配下。字は益徳(エキトク)。血の気の多い武将でその剛勇は「一人で一万の兵に匹敵する」と称された。 関羽とは真逆で上と認めた人物にはしっかり付き従う一方で部下に対しては乱暴で厳しく、その恨みで暗殺された。 演義での字は翼徳(ヨクトク)。劉備・関羽の義弟として戦乱を駆け抜けた。 ゲーム中の知力は低いが何度か計略を用いたことも有り、意外と頭の回る人物だったのでは、と言われている。 酒の上での失敗、孔明への嫉妬など愛すべき武将であり、ニコニコ動画でも「張ル飛(ハルヒ)」と呼ばれたり、キャラブレイクの対象にもされる。 三國志IX 統率 83 武力 98 知力 35 政治 22 三國志11 統率 85 武力 98 知力 30 政治 22 魅力 45 闘神/槍兵S,戟兵S,騎兵A 関連用語: ロリコン 関連タグ: 【張飛】 ニコニコ大百科: 『張飛』 変態記 【三國志Ⅹ】 +序盤で登場、紙芝居準レギュラー、キャラブレイクあり 完全なロリコン。動画内では、同じくロリコンキャラとして位置づけられている富竹とコンビを組む。 こ の ロ リ コ ン ど も め ! 東方のなく洞窟☆すた三国志Ⅸ 【三國志Ⅸ】 +中盤での敵役、所属軍は劉備→クォート、紙芝居参加経験あり、キャラブレイクあり 上と同じく完全なロリコン、ただし、戦に出るだけまだ真面目。とあるらき☆すたキャラに対して「ババア」と暴言を吐く。大丈夫、きっとまだいける。 史実でも十代半ばだったであろう少女を誘拐して妻にしているとあるので、1/4くらいは真実であるといえなくもないかもしれない。もっとも当時としてはそのくらいで結婚してもなんらおかしくない年齢ではある。 この動画の五虎将軍は一人残らず女性に対するおかしな嗜好持ち。しかもオープンにしているから余計性質が悪い。 魔理沙たちは三国志Ⅶで遊んでいきました 【三國志Ⅶ】 +プレイヤーキャラとなる回あり 完全な脳筋キャラ。敵が攻めてきたため迎撃に出るが敵の計略に乗せられ、勝手に退却。 結果劉備軍は破れ、勢力は滅亡した。 夢幻想列伝 Border of fate 【三國志Ⅸ】 +所属劉備軍→諸葛亮軍、紙芝居参戦あり、序盤~中盤の敵役、キャラブレイクなし 東方キャラレミリアのライバルとして設定され、彼女と一騎打ちを繰り広げる。 負けず嫌いなところは演義のままであり、幾度もプレイヤー勢力である霊夢軍と激突を繰り返す 魔理沙の幻想郷帰還誌 【三國志11PK】 +劉備軍武将→レミリア軍 チルノによる反逆により劉備軍が滅んだあと、劉備たちとともに流浪の身に(余談だが、紙芝居でチルノをぼこぼこにしたのはこいつ)。 その後、レミリア軍に拾われて瀕死の劉備とともに吸血鬼として生きることを選びチートキャラ化。相手の火計にあってもピンピンしている。 戦場では同僚のペドフィリア富竹の言動に頭を痛める常識人。このコンビを見ると 某動画 を思い出すが、この動画の張飛はロリコンではない。 上へ 張宝 (チョウホウ) [部分編集] (148?~184)張角の次弟で、黄巾の乱の指導者の一人。自称「地公将軍」。張角の病死後、態勢を立て直した官軍に討たれた。 演義では妖術使いの設定で最期は部下の厳政に殺された。ゲームでもお札を口にくわえたグラが付けられていることがある。 三國志IX 統率 83 武力 70 知力 86 政治 72 三國志11 統率 83 武力 71 知力 81 政治 64 魅力 82 鬼門/槍兵S,弩兵A,兵器S 幻想三国志 【三國志Ⅸ】 +張宝軍軍主、黄巾編の敵役 圧政の限りを尽くす国への義憤から兄弟と共に挙兵する。 しかし人間の醜い一面を目の当たりにし、次第に彼の心は絶望に蝕まれ、遂に兄張角を幽閉。実権を掌握する。 絶望からか人間の心や想いを信用せず、官軍打倒の為の力を重きに置いている。 兄張角に対しては昔から変わらぬ愛情と、自らの考えをわかって貰えぬ苛立ちが入り混じった複雑な気持ちを抱いている。 上へ 張翼 (チョウヨク) [部分編集] (?~264)字は伯恭(ハクキョウ)。蜀の将。前漢三傑の一人・張良の子孫。劉備が益州を平定した時、その家臣となった。名将であり多くの軍功があった。蜀滅亡直後に姜維が起こした乱に巻き込まれて死亡した。 三國志IX 統率 76 武力 74 知力 71 政治 68 三國志11 統率 75 武力 74 知力 71 政治 72 魅力 70 親蛮/戟兵A,弩兵A,兵器A 中華武将祭り 【三國志Ⅸ】 +劉備軍武将、鋼鉄ジーグ うp主が討ち死にオフにせず放置しておいた結果、夏侯淵(ドラゴンシスターから登録)に射殺される。動画的に人死にはごまかしにくいことから、うp主は討ち死にオフに直すことにした。 死んだ張翼は蘇生させられたがなんか変、いやロボっぽ「ロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボチガウロボ」 復帰に伴い全ステータス+10、全熟練値+300。 上へ 張遼 (チョウリョウ) [部分編集] (169~222)字は文遠(ブンエン)。元は呂布の部下で、後に曹操に仕える。各地に転戦して大いに功績を挙げ、合肥の戦いでは寡兵で孫権の大軍を追い詰めた。呉では「遼来来(りょうらいらい、張遼が来るぞ、の意)」と言えば「泣く子も黙る」(語源)とさえ言われたという。 56歳で孫権と対陣中に陣没した。演義では丁奉から受けた矢が元で死亡している。 演義よりも正史の活躍の方が凄まじいという希有な存在でそれも彼の魅力を引き立てている。 三國志IX 統率 94 武力 90 知力 83 政治 72 三國志11 統率 93 武力 92 知力 78 政治 58 魅力 78 威風/槍兵S,戟兵S,騎兵S 関連用語: 山田 、 ライライ 関連タグ: 【張遼】 ニコニコ大百科: 『張遼』 変態記 【三國志Ⅹ】 +終盤で登場、紙芝居登場有り、今夜が山田! 呂布軍で唯一の 呂布 への理解者。しかし、「今夜が山田!」としかしゃべれない(のちに「ライライ!」もしゃべれるようになる)ので呂布以外とは意思疎通ができないようだ。 武将として関羽をライバル視している。 もっこもこ 【三國志Ⅸ】 +魏国の将軍の中でも筆頭格、スタート時点で戦死した呂布の騎馬隊を引き継いでいる 序盤から漢中撤退戦、長安防衛戦にて活躍。 さらなる強敵と戦うために武器と丞相の爵位を贈られ、 洛陽防衛戦にて投石の飛び交う戦場を部下の騎馬隊とともに駆け抜けることになる 中華武将祭り 【三國志Ⅸ】 +呂布軍→北郷軍 呂布軍の切り込み隊長。滅亡後は主君らとともに北郷軍に降る。 合肥で本物孫堅軍と戦闘になったとき、「合肥で張遼二人ktkr!これはかつる!」と誰もが思った。 が、孫堅軍にも張遼が3人いたという。遼来来×5 in 合肥 なんてぇのを見ることが出来るのは多分ここだけ。まさに張遼跋扈。 本物張遼:一番まとも…だったのだが、第五十六話でまさかのキャラブレイクを見せた。 恋姫張遼:可愛い女の子大好き。関西弁。 無双張遼:山田ああああああああああ! 蒼天張遼:テラツヨス BB伝張遼:(;゚Д゚))))ザクザクゲルググ 関連動画―――― 遼来来! :替え歌MAD(歌唱つき) 上へ 張梁 (チョウリョウ) [部分編集] (?~184)張角、張宝の弟であり「人公将軍」を名乗って黄巾の乱を起こした。張角の病死後も戦ったが皇甫嵩に破れ戦死した。 三国志大戦の影響からか、一部では「ゴリラ」とも呼ばれる。 三國志IX 統率 81 武力 82 知力 68 政治 49 三國志11 統率 78 武力 80 知力 68 政治 52 魅力 80 妖術/槍兵S,騎兵A,兵器A 騎将張繍の野望 【三國志Ⅸ】 +張繍軍へ仕官 互いに賊軍・官軍というとても相容れない間柄だったことから皇甫嵩、朱儁に目をつけられ一触即発の状態となった。 しかし実は彼は人公将軍・張梁などではなくただの 「通りすがりのゴリラ」 であることが判明。なんとか丸く収まった。 張繍軍のみなさん同様に空気を読んでそっとしておいてあげるのがよいだろう。 上へ 張魯 (チョウロ) [部分編集] (?~220)原始道教の一つ「五斗米道」の指導者。字は公祺(コウキ)。益州の劉焉の指示で漢中を攻略し、そのまま半独立勢力となる。自らの宗教を基盤とした統治を行い、民からも慕われた。曹操の漢中侵攻を前にして降伏、財宝に手を付けなかった振る舞いに感心した曹操に厚遇された。 教団消滅後も五斗米道は様々に形を変えながら生き残り、現在においても正一教の名で教えが残っている。 プレイ動画界隈では「米屋」と呼ばれる。 三國志IX 統率 41 武力 33 知力 69 政治 80 三國志11 統率 51 武力 26 知力 73 政治 78 魅力 89 米道 変態記 【三國志Ⅹ】 +群雄の一人 信者から大量の米を集めていたのだが、ある日突然すべてケフィアに変わってしまい、がっかりしているうちに八雲紫軍に滅ぼされる。 霊夢の旅日記 【三國志Ⅹ】 +群雄の一人、主人公の主君 霊夢をはじめとする多くの東方勢を抱えていたが、霊夢の反逆により乗っ取られる。 滅亡後、処刑されかけたりするなど扱いは悪い(動画内で自分で言うように能力的には結構使えるのだが、霊夢たちからはダメな奴だと思われている)。 関連動画―――― ゴトベイドウ×キラメキラリ :替え歌(歌唱つき) 上へ 陳宮 (チンキュウ) [部分編集] (?~198)字は公台(コウダイ)。智謀の士として曹操に仕えるが、後に呂布に仕えた。数年の死闘の末に呂布軍が壊滅し曹操に捕らえられると、惜しむ曹操を背に自ら刑場に赴いた。 演義では呂伯奢一家殺害事件で曹操の残酷さを見限ったとしているが、史実での行動原因ははっきりしていない。 ゲームでは呂布軍におけるたった一人の参謀。 三國志IX 統率 72 武力 52 知力 89 政治 81 三國志11 統率 78 武力 55 知力 89 政治 83 魅力 68 掎角/弩兵A,兵器A 関連タグ: 【陳宮】 軍師黄皓の憂鬱 【三國志11】 +呂布軍武将。 呂布軍武将。珍Q。 脳筋君主あしらいに定評のある苦労人。 上へ 陳羣 (チングン) [部分編集] (?~236)字は長文(チョウブン)。はじめ劉備に仕える。その後曹操に仕えると、曹操のもとで法整備に尽力。中でも特に「九品官人法」は隋の時代に科挙が制定されるまで長く用いられた。 三國志IX 統率 21 武力 7 知力 72 政治 95 三國志11 統率 32 武力 14 知力 74 政治 96 魅力 73 上へ 陳寿 (チンジュ) [部分編集] (233~297)歴史書『三国志』の編纂者。字は承祚(ショウソウ/ショウソ)。一説では蜀に仕える陳式の子とも。蜀の滅亡後、羅憲の推挙を受けて晋に仕えた。彼の師である譙周の伝に、彼本人が出てくるという歴史書としては驚愕の一幕もあったりする。 プレイ動画界隈では「作者」と呼ばれる。その立場から、ストーリーの上でのキーパーソンになることも。 三國志IX 統率 15 武力 22 知力 60 政治 75 三國志11 統率 12 武力 22 知力 60 政治 75 魅力 51 上へ 陳到 (チントウ) [部分編集] (生没年不詳)後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将。字は叔至。劉備が豫州刺史時代からの家臣で、忠義に篤く、武勇に優れ、劉備が蜀の皇帝になると征西将軍、永安都督、亭侯に封じられた。 正史では趙雲に次ぐ人物として高い評価を受けているものの、演義ではその存在を抹消された 羅貫中の被害者 の一人。 ゲーム上の評価では、趙雲とはかなり差が有る……。 三國志IX 統率 75 武力 72 知力 62 政治 66 三國志11 統率 76 武力 71 知力 63 政治 53 魅力 69 槍兵A,騎兵A 馬謖の野望 【三國志11】 +永安軍武将。 永安軍武将。陳到さん。 馬謖やアイドル達と共に、その信念と忠義故に蜀に反旗を翻した熱き忠将。 作品内で熱いシリアスなシーンはほぼこの人絡み。 騎将張繍の野望 【三國志Ⅸ】 +何進軍→張繍軍。 何進配下として登場。自身を武将としてより一人の武人として存在価値を見出している。洛陽攻防戦では城の守りを任されるもあえなく陥落。自責の念に駆られ自害しようとした所をレティに窘められ張繍軍に帰順する。 キャラブレイクの多いこの動画の中では数少ない生真面目な人。 天水攻略戦において、彼のかっこよさ、強さは趙雲以上。 上へ 張遼やってほしいけど、いろんなところに出ていておっつかないな~; -- 名無しさん (2008-06-03 02 12 06) 上記コメントを「武将別伝(三国志)ラ行」から移動。 -- 名無しさん (2008-11-09 09 11 52) 張嶷の読みについて、一応貼っとく http //d.hatena.ne.jp/mujin/20081103/p3 -- 名無しさん (2008-12-07 16 04 53) ↑訂正かけました。ちくまのも誤訳だったのか…… -- 名無しさん (2008-12-21 14 07 22) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/386.html
唐書巻二百一 列伝第一百二十六 文芸上 袁朗誼 承序 利貞 賀徳仁 庾抱 蔡允恭 謝偃 崔信明 鄭世翼 劉延祐 蔵器 知柔 張昌齢 崔行功 銑 杜審言 易簡 甫 王勃 勮 助 楊炯 盧照隣 駱賓王 元万頃 正 義方 季方 范履冰 周思茂 胡楚賓 唐代三百年のうち、文章におよそ三度変化がある。高祖・太宗が混乱を平定した始めは、南朝の遺風をうけて、辞句は稀(きめこま)かにいろどられ、低卬(リズム)を凝らしたものであった。 そこで、王勃・楊炯が覇者となった。玄宗は経学を好み、臣下達も少しずつ装飾にあき、文章に論理の趣を求めた。典雅であることを尊重し、軽薄さを除き、文章の気概はますます雄大になった。燕国公(張説)と許国公(蘇頲)とが当時の文壇を独占した。この時は、唐の国家が成立してもう百年もたち、諸々の文学者達が争いあい、それぞれ一家をなした。大暦・貞元年間(766-805)には、秀れた才能ある人々が次々に出、道の真髄を深くたしなみ、聖人の徳に浸っていた。そこで韓愈が古文を提唱すると、柳宗元・李翱・皇甫湜等が呼応し、異端の説を斥け、基準は厳しくなった。魏・晋を圧倒し、さかのぼって周代・漢代に比べられるまでになった。唐代の文章は、それで、完全に唯一の規範となったのである。これが、文章の極致であった。たとえば、天子のお相手する詩文では、李嶠・宋之問・沈佺期・王維がおり、詔文を作ることでは、常衮・楊炎・陸贄・権徳輿・王仲舒・李徳裕がおる。詩のジャンルでは、杜甫・李白・元稹・白居易・劉禹錫がおり、異常美を歌った者には、李賀・杜牧・李商隠がおる。どの人も皆、それぞれ卓越しており、その長所で時代の第一人者となった。尊重すべき者である。 しかし、かつてこう言われたことがある。孔子の学派は、文学を一番下の範疇にしているが、それは何故か、と。きっと、天が君子や小人に与える文学の力は、一定の分け前というものがなく、ただ秀れた者だけがこれを得られるからであろう。だからこそ、一芸と公称するのである。中ぐらいの知者以下には、自分の文才をたのみにして失敗する者もあれば、良くない友の仲間入りをし、虚偽を言い飾る者もあるし、怨みや不平を抱いて国を譏る者もある。もし君子であれば、そうではない。自らの業績や実践活動で、その時代に自分が、より輝くことが出来る。それでも、主張を述べ立てて永遠に名を残そうと専心しなかった人がある。たとえ官に任用されなくても、それはそれでしばらく、自らの気持ちを開きのべつつ、のんびり自適する。異を唱えても、相手を排斥するまでにはせず、怨みを述べても、誹謗するわけでない。しかも、いつも君主を善導することを思い忘れない。それだから、尊敬すべき者なのである。さて今は、ただ、文学者としてのみ名声ある者を取りあげて、文芸篇を作る。たとえば韋応物・沈亜之・閻防・祖詠・薛能・鄭谷らは、こういう人々はまだ多いし、皆明らかに文学作品があって、世間に伝わっているのだが、歴史家が、彼らの行動事跡を書き落としてしまった。それで、こういう人々のことを取りあげて述べることが出来ないのである。 袁朗は、その先祖は雍州長安の人である。父の袁枢は、陳に仕えて尚書左僕射となった。袁朗は陳にいた時は秘書郎となり、江総によって優れた人物だとみなされた。後主はその才能を聞いて、詔して月賦一篇をつくらせ、あっさりとしていて思いは留まることがなかったから、後主は、「謝荘の独壇場ではなくなったな」と言った。また詔して芝草・嘉蓮の二頌をつくらせ、感じ入って賞があつかった。累進して太子洗馬・徳教殿学士に遷った。陳が亡ぶと隋に仕え、尚書儀曹郎となった。 武徳年間(618-623)初頭、隠太子と秦王(後の太宗)・斉王が互いに不仲となり、争って名臣を呼んで自分の補佐とした。太子は詹事の李綱・竇軌、庶子の裴矩鄭・鄭善果、王友の賀徳仁、洗馬の魏徴、中舎人の王珪、舎人の徐師謩、率更令の欧陽詢、典膳監の任璨、直典書坊の唐臨、隴西公府祭酒の韋挺、記室参軍事の庾抱、左領大都督府長史の唐憲がいた。秦王には王友の于志寧、記室参軍事の房玄齢・虞世南・顔思魯、諮議参軍事の竇綸・蕭景、兵曹の杜如晦、鎧曹の褚遂良、士曹の戴冑・閻立徳、参軍事の薛元敬・蔡允恭、主簿の薛収・李道玄、典籤の蘇勖、文学の姚思廉・褚亮、燉煌公府文学の顔師古、右元帥府司馬の蕭瑀、行軍元帥府長史の屈突通、司馬の竇誕、天策府長史の唐倹、司馬の封倫、軍諮祭酒の蘇世長、兵曹参軍事の杜淹、倉曹の李守素、参軍事の顔相時がいた。斉王には記室参軍事の栄九思、戸曹の武士逸、典籤の裴宣儼がいて、袁朗は文学となった。従父弟の袁承序もまた名で、王は召して文学館学士とした。袁朗は汝南県男に封ぜられ、再び給事中に転任した。卒すると、太宗は廃朝すること一日、高士廉に向かって「袁朗は微官であったが性格は謹厳実直であったから、人を派遣して哀悼させよう」と言い、詔して葬式代を給付し、その家に弔問させた。 袁朗の遠祖の袁滂は漢の司徒であった。袁滂から袁朗にいたるまでおよそ十二世、その間、司徒・司空の位にいたものは四世で、袁淑・袁顗・袁察はみな宋の国難に死に、袁昂は斉・梁の時に節義をあらわした。袁朗は宮中の内外の人物にあって天下に冠となり、琅邪の王氏が連続で公卿となったはいえ、袁氏は特に歴代王朝の補佐となって功績があったから、同列にするにはとってたりないほどであった。 袁朗の孫の袁誼は、神功年間(697)に蘇州刺史となった。司馬の張沛なる者は、侍中の張文瓘の子で、かつて袁誼に向かって「蘇州は一人の長官を得たが、隴西の李氏(唐室)は、天下の高貴の家をほしいままにしている」と言うと、袁誼は「門戸というものは、歴代名節が天下に名高いものをいい、この老夫がそうなのである。山東の人は閨閥を尊び、禄や利を求めるだけで、受命危うしとみるや、人材がいなくなってしまう。どうして尊ぶに足ろうか」と言い、張沛は大いに恥じた。 袁承序は斉王李元吉の府学士で、斉王府が廃止されると、建昌県令に補任された。統治は慈悲と簡潔をたっとび、吏民はその徳に懐いた。高宗が晋王となるや、太宗は下僚を選ぶことを崇び、梁・陳の名臣の子弟で誰がよいかを尋ねた。岑文本は、「昔、陳が滅亡すると、百官は走り逃げましたが、袁憲なる者がいて、朝服のまま後主の傍に立って、白刃を避けませんでした。王世充が隋を簒奪すると、群臣が帝位につくよう上表して勧めましたが、袁憲の子で給事中の袁承家は病と称して署名することをよしとしませんでした。今、袁家の末っ子の袁承序は、人品は清明で、先烈に恥じることはないでしょう」と答えた。帝はそこで召還して晋王友・兼侍読に任じ、弘文館学士を加えた。卒した。 袁朗の従祖弟の袁利貞は、陳の中書令の袁敬の孫で、高宗の時に太常博士・周王侍読となった。周王が皇太子に立てられると、百官は上礼を行ない、帝は群臣と大会したいと思い、命婦とあわせて宣政殿で宴し、九部伎・散楽を演奏しようとした。袁利貞は上疏して諌め、「前殿の路や門は、命婦が宴会したり俳優が演ずる場所ではありません。命婦の宴は別殿で移して下さい。九部伎は左右の門から入り、散楽を演奏するのは止めてください」と述べ、帝は受け入れた。宴会が終わると、帝は利貞に詔を伝えて「卿は時代を通じて真心かつ剛直で、よく上疏して抗議し、朕の失策を諌めた。厚く賜物をしなければ善を勧める者がいなくなってしまうだろう」と述べて、賜物を百段とした。祠部員外郎に任じられ、卒した。中宗が即位すると、旧恩によって秘書少監を追贈された。 賀徳仁は、越州山陰の人である。父の賀朗は、陳の散騎常侍で終わった。賀徳仁と従兄の賀徳基は周弘正に師事し、文章をよくして称えられ、人々は「学行は賀徳基を師とすべきで、文章は賀徳仁が充実している」と語った。兄第は八人いて、当時は漢の荀氏と比べられ、太守で鄱陽王の陳伯山が賀兄弟の居場所の甘滂里を改めて高陽里にしたという。 はじめ賀徳仁は陳にあって、呉興王(陳の太子・陳胤)友となった。隋代になると、楊素がその人材を推薦して、豫章王(煬帝次男)の記室となり、豫章王は厚遇した。豫章王が斉王に移封されると、また斉王府の下僚となった。斉王府が廃止されると、官吏は罪にあたったが、賀徳仁は忠謹のため許され、河東司法参軍に補任された。 昔から隠太子と親しく、高祖が挙兵すると、太子は隴西公に封ぜられ、賀徳仁を王友とし、庾抱を記室に任じた。にわかにともに中舎人となった。年老いて吏の事務職に堪えられないとして、洗馬に遷り、蕭徳言・陳子良と東宮学士となった。貞観年間(623-649)初頭、趙王友に移り、卒した。 従子の賀紀・賀敳もまた博学であった。高宗の時、賀紀は太子洗馬となり、五礼を修するのに預かり、賀敳は率更令・兼太子侍読となり、皆、崇賢館学士となった。 庾抱は、陳の御史中丞の庾衆の孫である。開皇年間(581-600)、延州参軍となった。入京して吏部に任命され、尚書の牛弘は文具を給い、自序させ、筆を助けて完成させた。元徳太子の学士となったが、たまたま嫡皇孫が生まれ、大宴となったとき、席中で頌を献じ、太子は驚き褒めた。隴西府にある時、檄文はすべてその手より出た。 蔡允恭は、荊州江陵の人で、後梁の左民尚書の蔡大業の子である。容姿は美しく、詩を巧みにつくった。隋に仕え、起居舎人となった。煬帝は賦があれば、必ず唱和させた。宮人に教えるために派遣されたから、蔡允恭はこれを恥じて、しばしば病と称した。内史舎人を授けられ、宮中に入ることとなったが、固辞し、そのため疎んじられて斥けられた。帝が弑逆されると、宇文化及・竇建徳に仕え、唐に帰順して秦王府参軍・文学館学士となった。貞観年間(623-649)初頭、太子洗馬に任じられ、卒した。著作に『後梁春秋』がある。 謝偃は、衛州衛県の人で、本姓は直勒氏で、祖父の直勒孝政は、北斉に仕えて散騎常侍となり、謝氏に改姓した。謝偃は隋では散従正員郎となった。 貞観年間(623-649)初頭、詔に応じて対策に成績優秀で合格し、高陵主簿に任じられた。太宗が東都(洛陽)に行幸すると、穀水・洛水が決壊して洛陽宮を破壊したから、詔して直言を求めた。謝偃は上書して得失を述べたから、帝は褒め称え、引き立てられて弘文館直学士となり、魏王府功曹に遷った。かつて塵賦・影賦の二篇をつくり、帝はその文を優れているとし、召見し、謝偃に賦をつくらせようと思った。まず帝が序一篇をつくり、天下太平・功徳繁盛の意を述べ、謝偃に与えて賦させた。謝偃は帝の指示によって、述聖篇をつくったから、帝は喜び、帛数十を賜った。 それより以前、帝が即位すると、直中書省の張蘊古が「大宝箴」を進上し、帝に民衆の恐れだけでは懐かせることはできないとほのめかし、その文章は抜きん出ており、大理丞に抜擢された。謝偃もまた「惟皇誡徳賦」を献上し、その序の大略は以下の通りである。「治世においては乱を忘れ、安全の中では危きを忘れ、気楽であれば労を忘れ、得られれば失うことを忘れますが、この四つは人主であってもそうなのです。桀王は瑤台を壮麗にしましたが、南巣の禍いを悟らなかったのです。殷の辛(紂王)は象牙の箸によって華やかさとしたから、牧野での敗北を知らなかったのです。これによって聖人が宮中にあって前王が滅亡した理由を思い、万国に朝政して自身が尊くなった理由を思い、府庫を巡って今富貴を得た理由を思い、功臣を見てその輔佐の始めを思い、名将を見て能力を用いるようになった初めを思い、このように人が心を変えることがなければ、天下はどうして教化に服さないと心配することがありましょうか。朝にこれを行えば堯・舜のような聖天子となり、夕暮れに失えば桀王・紂王のような暴君となるのは、どうして人と異なることがありましょうか」その賦はおおよそ帝の成功を諌めて自ら処することが至難であることを述べたものという。また『玉諜真紀』を撰述して封禅を行うことを勧めた。当時、李百薬は詩を巧みにし、また謝偃も賦をよくしたから、当時の人は「李詩謝賦」と称えた。魏王府が廃止されると、湘潭県令で終わった。 張蘊古は、洹水の人である。尚書や左伝に詳しく、世務にあかるく、文章は当時の文壇をほしいままにした。後に事件に罪して誅殺された。 崔信明は、青州益都の人である。高祖父の崔光伯は、後魏に仕えて七兵尚書となった。崔信明が生まれたのは、五月五日の正午で、怪しい雀が鳴いて庭の樹に集まったから、太史令の史良が占って「五月は火であり、火は離を主としており、離は文をなしている。日中は、文の盛であり、雀は五色であって鳴く。この児は文才によって世に現れるだろうが、しかし雀は類がいるという徴候であるから、位はほとんど高くはならないだろう」と言った。成長すると、博覧強記で、美しい文章を書いた。郷人の高孝基はかつて人に語って「崔君の才能は豊かで、この時代に冠たる者になろうが、ただ残念なのは位は高くはならないことだ」と述べた。隋の大業年間(605-618)、堯城県令となった。竇建徳が帝位を僭称すると、崔信明の族弟の崔敬素なる者が賊の鴻臚卿となり、自らを得意として、崔信明に「夏王は英武で、天下の心をつかみ、男女が子供を背負ってやって来る者は数えきれないほどだ。兄さんはこの時に功績を立てられなければ、どうしていうまでもなく機会を窺って日が終わるのを待たないのか」と言ったから、「昔、申包胥は海で釣人に会って、よくその節を固めたという。お前は私の身を賊中に屈させて少しばかりの報償を求めるというのか」と答え、ついに城を去って、太行山に隠れた。貞観六年(632)、家に詔があって興勢県の丞を拝命した。秦川県令に遷り、卒した。 崔信明は驕り高ぶり、名門であることを自負し、かつて自身の文章を誇って、李百薬を超越したと言ったが、議論する者たちはそうではないとした。揚州録事参軍の鄭世翼なる者もまた傲慢で、しばしば軽率に人と争い、崔信明と江を渡る舟の中で出会い、「公に「楓落ちて呉江冷かなり」の文があると聞いているが、そのほかをみせてくれないか」と言ったから、崔信明は喜んで多数の詩篇を見せたが、鄭世翼が見終わらないうちに「見たところ聞くに及ばないようだ」と行ってすべて水に投げ捨て、舟を引いて去っていった。 鄭世翼は、鄭州滎陽の人で、周の儀同大将軍の鄭敬徳の孫である。貞観年間(623-649)、怨みにより誹謗されて巂州に流謫されて死んだ。『交游伝』を撰述し、世に盛行した。 崔信明の子の崔冬日は、武后の時に黄門侍郎となったが、酷吏に誣告されて死んだ。 劉延祐は、徐州彭城の人である。伯父の劉胤之は、若くして学を志し、孫万寿・李百薬とは互いに親しい友人であった。武徳年間(618-623)、杜淹によって信都県令に推薦され、善政を行った。永徽年間(650-655)初頭、著作郎・弘文館学士となり令狐徳棻・陽仁卿らと国史および実録を撰述し、労によって陽城県男に封ぜられた。楚州刺史で終わった。 劉延祐は進士に及第し、渭南県の尉に補任され、官吏として有能であり、統治第一とされた。李勣が「君は年若くして美名があるが、少しは自らを抑えた方がよい。人の上に出ることがないように」と戒めたから、劉延祐は謹んで受け入れた。後に検校司賓少卿となり、薛県男に封ぜられた。 徐敬業が叛乱をおこして敗れると、劉延祐に詔して持節させて軍を率いさせた。当時吏は議論して徐敬業に任命された五品の官は死を賜い、六品を流刑とするとしたが、劉延祐は脅された事情を汲むべきだと言い、そこで五品官を授けられた者は配流とし、六品以下は除名し、大半の者の赦すべきと主張した。箕州刺史を拝命し、安南都護に転じた。もとは俚戸は一年の収穫の半分を租として納めることになっていたが、劉延祐は責めてすべて納入させたから、衆は怨みを懐き、叛乱を企てた。劉延祐はその首領の李嗣仙を誅殺したが、残党の丁建らがついに叛乱をおこし、衆を合わせて安南府を包囲した。城中の兵は少なく城を支えられず、防備を固めて救援を待った。広州大族の馮子猷は功を立てようとして、兵を待機させて出さなかったから、劉延祐は殺害されてしまった。桂州司馬の曹玄静が兵を進軍させて丁建を討伐してこれを斬った。 劉延祐の従弟の劉蔵器は、高宗の代に侍御史となった。衛尉卿の尉遅宝琳が人を脅して妾としており、劉蔵器は弾劾して妾を戻していたが、尉遅宝琳が密かに帝に願って戻すのを止め、だいたい再度弾劾しては再度戻すのを止めていた。劉蔵器は、「法は天下の法度で、万民が共にするところです。陛下が情によって法を捨てられれば、法は何の施すところでしょうか。今、尉遅宝琳は密かに願ったところを陛下は従われました。臣が公けに弾劾すると、陛下はこれもまた従われました。今日従って明日改めるのならば、下は何に従えばよいのでしょうか。彼の匹夫匹婦は信を失うのに憚るかのようですが、ましてや天子にいたってはどうでしょうか」と述べ、帝はそこで詔して裁可したが、内心ではふくむものがあり喜ばなかった。しばらくして比部員外郎に遷った。監察御史の魏元忠がその賢人ぶりを称え、帝は抜擢して吏部侍郎にしようとしたが、魏玄同が阻んで「彼が道を守るのに篤くはない者ですが、どうして用いるのでしょうか」と述べたから、遂に京師から出されて宋州司馬となり、卒した。 子の劉知柔は、性格は慎ましく物静かで、風采や行ないは美しかった。親を喪うと、墓の側に庵を立てて守ったから、詔して墓前に石闕を築いてこれを表した。国子司業に任じられ、工部尚書に遷った。開元六年(718)、河南が大洪水となり、詔して劉知柔に駅で急派させて民の辛苦および官吏の善悪を査察させ、所表陳州刺史の韋嗣立、汝州刺史の崔日用、兗州刺史の韋元珪、符離県令の綦毋頊らを表彰し、治世の成績は二十七人にとどめた。しばらくして太子賓客に遷り、彭城県侯に封ぜられた。致仕したが、禄は終身給付された。薄葬を遺令し、葬式は自らその費用を用いた。太子少保を贈られ、文と諡された。弟の劉知幾は別に伝がある。 張昌齢は、冀州南宮の人である。兄の張昌宗とともに文章によって自らその名を顕したから、冀州は秀才に推挙しようとしたが、張昌齢は秀才科が廃止されて久しいことから、固辞した。さらに進士に推挙され、王公治と名を等しくしたが、皆、考功員外郎の王師旦に斥けられた。太宗がその理由を尋ねると、「張昌齢らは華やかですが実は少なく、その文章は浮ついていて、優秀な人材とはいえません。かれらを採用した後に向かうところ、陛下の風雅を乱しましょう」と答え、帝はその通りだと思った。 貞観年間(623-649)末、翠微宮が完成し、頌を帝に献上して召見され、試しに兵を休ませる詔をつくらせると、わずかな間に文章をつくってみせた。帝は大いに喜び、「昔、禰衡と潘岳は自分の才能を誇って、死んでしまったが、卿の才能は二人にも劣らない。前事を鑑みて、朕の求めるところを補佐してほしい」と戒め、そこで勅して通事舎人として供奉した。まもなく崑山道記室となり、亀茲(キシュ)を平定するための無封の書は、兵士に称えられた。賀蘭敏之の奏上により北門の編纂事業に参与したが、卒した。 張昌宗は、官は太子舎人・修文館学士に至った。『古文紀年新伝』数十篇を撰述した。 崔行功は、恒州井陘の人である。祖先の崔謙之は、北斉に仕え鉅鹿太守で終わり、鹿泉に遷った。若くして学を好み、唐倹はその才能を愛して唐倹の娘を妻とした。そこでたびたび文章をつくった。高宗の時代、累進して吏部郎中に遷り、奏上をよくした。常に通事舎人、内供奉を兼任した。事件に連座して游安県令に貶されたが、また召還されて司文郎中となった。蘭台侍郎の李懐儼と並んで朝廷の文章を司った。 それより以前、太宗は秘書監の魏徴に命じて四部の群書を書写して、内府に収蔵しようとし、校正で二十人、書工を百人設置した。魏徴が失脚したため、詔して虞世南・顔師古が事業を引き継いだが、事業が完成しなかった。顕慶年間(656-661)、校正の人を罷免し、書工が家で書写し、官に送って賃金を受け取ることを許し、散官を交代制にして校正させた。ここにいたって詔東台侍郎の趙仁本・舎人の張文瓘および崔行功・李懐儼に詔して監督を行なわせ、詳正学士を設置して散官と交替した。功労により蘭台侍郎に転じ、卒した。 孫の崔銑は、定安公主を娶り、太府卿となった。それより以前、定安公主は王同晈に降嫁し、後に崔銑に降嫁した。公主が卒すると、王同晈の子の王繇が父と合葬することを願い出た。給事中の夏侯銛が反駁の奏上を行ない、「公主は王氏と絶縁しました。喪はまさに崔氏のもとに帰るべきです」と述べ、詔して裁可された。夏侯銛はそれでも京師より出されて瀘州都督となった。崔行功の兄の子の崔玄暐は別に伝がある。 杜審言は、字を必簡といい、襄州の襄陽の出身で、昔の征南将軍の杜預の遠い子孫にあたる。進士の試験に合格して隰城の尉となった。才能を鼻にかけて、傲慢なふるまいがあったため、人々に憎まれた。蘇味道が天官(吏部)侍郎として選考試験を行ったとき、杜審言は試験に応じたが、試験場から出てきて人にいうには、「味道はきっと死ぬぞ」。人が驚いてわけを聞くと、「やつはおれの答案を見て、恥ずかしくて死んじまうのさ」と答えた。またあるとき人にむかって、「おれの文学にかかっては、屈原・宋玉も下っぱあつかい、おれの書の前では、王羲之も弟子同然だな」。その誇り高さと放言癖はざっとこんなものだった。 官を重ねて洛陽の丞になったが、罪にふれて吉州司戸参軍に左遷された。そこでも同僚と折りあいがわるく司馬の周季重と司戸の郭若訥は、杜審言の罪をでっちあげて、彼を獄につなぎ、殺そうとした。折から周季重らが酒盛りを開いて酩酊中のところへ、杜審言の息子で十三になる杜并が短刀を忍ばせて押しかけ、周季重をその場で刺した。とりまきの連中がすぐ杜并を殺した。いまわのきわに周季重は、「杜審言に孝行息子があろうとは、わしは知らなんだ。郭若訥めがわしをそそのかしおって」といった。杜審言は官職を免ぜられて洛陽にかえった。蘇頲は杜并のあつい孝徳をいたんで、その墓誌銘を書き、劉允済は祭文を作ってとむらった。 のち武后が杜審言を召し出して、起用しようとし、「そなた、うれしいか」とたずねると、彼は三拝九拝して武后に感謝した。武后は「歓喜の詩」を作らせたが、そのできばえがいたくお気に召して、著作佐郎を授けられ、さらに膳部員外郎にかわった。神龍年間初頭(757)、張易之とつきあいのあったことが災いして、峯州に流された。やがて都にかえって国子監主簿・修文館学士となり、亡くなった。太学士の李嶠らが官位の追贈を願いで、詔によって著作郎を賜った。 それより先、杜審言の病勢が重かったとき、宋之問・武平一らが見まいに訪れ、どうだと聞くと、「天の小わっぱに痛めつけられ ていて、今さら何もいうことはない。だがおれの在世中は、長い間諸君の頭を抑えつけたな。今は死にゆく身とて、さだめしほっとしたことだろうが、あとがまになる人材のないのが残念じゃ」と答えたという。若いころから、李嶠・崔融・蘇味道とともに「文章の四友」と呼ばれ、世に「崔・李・蘇・杜」と称された。崔融が亡くなったとき、杜審言は喪に服したといわれる。 杜審言の従祖兄の杜易簡は、九歳でよく文をつくり、成長しては博学で、岑文本によって才能があるとみなされた。進士に選ばれ、渭南の尉に任命された。咸亨年間(670-674)初頭、殿中侍御史を歴した。かつて道で吏部尚書の李敬玄と会って、道を譲らなかったため、李敬玄に恨まれ、召されて考功員外郎となって屈服させられた。しかし侍郎の裴行倹と李敬玄は仲が悪く、そのため杜易簡は上書して李敬玄の罪を申し立てたが、李敬玄は、「襄陽の小童は軽薄なだけだ」と言い、そこで杜易簡の落ち着かなさを上奏すると高宗は怒り、開州司馬に左遷された。 杜審言は子の杜閑を生み、杜閑は杜甫を生んだ。 杜甫、字は子美、青年時代は貧乏で、うだつがあがらず、呉越と斉・趙(山東・河北)に放浪生活を送った。李邕はその才能を非凡とし、自分から出かけて面会を求めたことがある。進士に挙げられたが及第せず、長安で生活に苦しんだ。 天宝十三載(754)、玄宗が太清宮に老子を祭り、太廟に先祖を、南郊に上天を祭ったとき、杜甫は賦三篇を奉った。玄宗はそのできばえを非凡とし、集賢院の御用係りにとりたて、宰相に命じて文章を試験させた。河西県(雲南)の尉官に抜擢されたが拝命せず、改めて右衛率府の冑曹参軍に任命された。杜甫はしばしば賦頌を奉り、それによって誇って言うには、「わが先祖の杜恕・杜預以来、儒者の家としての伝統をつぎ、仕官の家としての本分を守りつづけること十一代、杜審言に至って、文学をもって中宗皇帝のみ代に世に知られるようになりました。臣は先祖の遺業をついて、七歳より詩文を作りはじめ、四十年にもなろうとしています。しかしながら身につける着物とてなく、常に人に寄食しているようなしまつであり、あげくはみぞに転げ落ちてのたれ死にするのではないかと、ひそかに恐れております。伏して願わくは天子の憐れみをたまわんことを。もし幸いにわが先祖の名誉を思い出したまい、臣を泥土の久しき辱しめより引き上げたもうならば、臣の著述するところは、六経を世におしひろめるまではゆかなくとも、重々しくて抑揚にとみ、時宜に応じて筆先きが敏捷であるという点に至っては、古の楊雄・枚皐にも比肩しうるでありましょう。かくのごとき臣がありますのに、なぜ陛下はうち棄てたままにおかれたもうのですか」と。 安禄山の乱に遭遇し、玄宗が四川に落ちのびたとき、杜甫は賊軍を避けて三川県に逃がれたが、粛宗の即位を聞き、鄜州より変装して、霊武の行在所にかけつけようとして、賊軍の捕虜となった。至徳二年(757)、賊中より脱出して鳳翔にのがれ、天子に拝謁して、右拾遺を授けられた。房琯とは仕官前からの交があったが、ときに陳涛斜の戦いに敗北し、また客の董廷蘭のことに連座して宰相を罷免された。杜甫は房琯のために上奏文を奉っていうのに、「些細な罪により、大臣を罷免してはなりません」と。粛宗は激怒し、命じて刑部・御史台・大理寺の三司尚書合同で杜甫を取り調べさせたが、宰相の張鎬が、「杜甫がもし処刑されるようなことがあれば、以後諫言をなすものの道を絶つことになるでありましょう」と弁護したことにより、帝ははじめてその気持ちをほぐすに至った。杜甫は上奏文を作って感謝していうには、「房琯は宰相の子で、若くして世に立ち、純の誉れ高く、大臣の風格を備えており、世論もまたの才能が補佐の職責にたえうることを認めておりました。陛下はその期待どおりに宰相の職をおゆだねになられたわけでありますが、陛下は房琯が陛下の憂いたもうところに深くその思いをよせ、正義の心のその顔色にあらわれているのをご覧になられたことでありましょう。しかしながら房琯はその性格に余りにも抜けたところがあり、かつ琴を鳴らすことを過度に好むところがありました。ために房琯の門下に身を託していた董廷蘭なるものが、貧乏と病気のためにすっかりぼけてのことではありますが、房琯の威勢をたのんでよからぬことをしでかすに至ったようなしだいであります。まことに瑄は人情にひかれて、つまづくに至ったものといえましょう。臣は房琯がその功名をまだとげぬうちに、志気の挫折してしまったことを歎くものであります。願わくは陛下には、房琯の小さなとがを棄てて、その大いなる功を取り上げていただきたいものです。臣が死して申し述べましたのは実にそのためであります。ぶしつけきわまることばに足をふみこみ、聖主のみ心にたがいさからたてまつりましたが、陛下が臣の百死に値する罪を許したまい、臣に休職を賜りましたことは、天下の人びとの幸福であり、その幸は臣がひとりこうむるばかりではないでありましょう」と。しかしながら帝はこののち余り社甫をおひき立てになられるようなことはなかった。 その時は至る処に賊軍の略奪があり、杜甫の家族は鄜州に住んでいたが、一年にもわたって生活に困窮し、幼児が餓死するまでに至った。そのために天子は杜甫に家族を鄜州に見舞うことをお許しになられた。長安が回復されるに及び、皇帝に従って長安に帰ったが、転出して華州の司功参軍となった。ときに畿内一帯に飢饉があり、杜甫はかってに官を棄てて去り、秦州に旅して、たきぎを負い、ささぐりを拾って自活した。ついで四川に放浪して、住居をこしらえた。召されて京兆功曹参軍に任ぜられたが、赴かなかった。たまたま厳武が剣南・東西川節度使として成都に赴任して来たので、杜甫は厳武をたずねてその庇護を受けた。のち厳武はいちど都に召還されたが、ふたたび剣南節度使として成都にもどって来るに及び、厳武の上奏によって杜甫は剣南節度参謀・検校工部員外郎の官を得た。厳武は父の代からのつきあいにより、はなはだ厚く杜甫を待遇し、親しく杜甫の家を訪問したが、時には杜甫は厳武に会うのに、ずきんをかぶらぬままのこともあった。しかも杜甫は生まれつき怒りっぽくて、ごうまんであり、あると酒に酔って厳武の寝台に上がり、厳武をにらみつけていうには、「厳挺之どのにまさかこんな息子があろうとは」と。厳武もまた乱暴者であった。厳武は外面ではさからわぬもののごとくであったが、心中にはこのことを根に持ったのだった。ある日、厳武は杜甫と梓州刺史の章彝を殺そうとし、部下をその門に集めた。厳武が出かけようとしたとき、冠が三度すだれの留め金にひっかかった。そばのものが厳武の母にことのしだいを報らせたので、母は杜甫を救いにかけつけて杜甫を殺すことを厳武に思いとどまらせることができた。厳武はひとり章彝を殺しただけだった。厳武が亡くなると、崔旰らが成都において反乱を起こしたため、杜甫は梓州と夔州との間をさまよい歩いた。 大暦年間(766-779)、瞿唐峡を出て江陵に下り、そこより沅江・湘江をさかのぼって、衡山に登った。そのついでに耒陽に行き、そこから岳祠に出かけたとき、にわかに洪水に見舞われ、十日間も食べ物が手に入らなかった。耒陽の県令が舟を準備して迎えに来てくれたので、やっと耒陽に帰ることができた。県令があるとき杜甫のために牛のあぶり肉と白酒とを贈り届けてくれたことがあるが、杜甫はその酒を飲みすぎて一晩で亡くなった。年五十九。 杜甫はきまま勝手で、みずからを律するところがなく、好んで天下の大事を議論したが、その意見は高遠すぎて現実的でなかった。若くして李白とその名声をひとしくし、時の人は二人をつらねて「李杜」とよんだ。あるとき李白と高適とに従って汴州に立ちよったとき、酒の酔ったころ吹台に登り、古を懐って意気たからかであったが、そのときの胸のうちは凡俗にははかり知ることのできぬものがあったであろう。また杜甫はしばしば戦乱を経験したが、節操を守って身を汚すことなく、詩を作って悲しみ、その心はつねに君主を忘れることがなかったので、人々はそのまごころに感動したのである。 賛にいう。唐の初め、詩人たちは陳・隋の遺風を継承して、内容のない美しさを誇りあっていたが、宋之問・沈佺期らに至って、音律がみがききたえられ、平仄がととのえられるようになった。そして人々はそれを律詩とよび、競ってそれにしたがいならっていたが、開元年間(713-741)に及んで、ようやく雅正をねらいとして詩を作るようになった。しかしながら華美を誇るものは実質が伴わず、美麗を好むものは勇壮さが失われ、人々はその一端を得れば、皆それをみずからすぐれるところとして誇っていたが、杜甫に至って、つつみこんで広々とし、さまざまの変化に富み、古今の詩を兼ね合わせて、それらを一身に所有したのである。他の詩人たちは不十分であったが、杜甫こそはあり余るものであったといえよう。杜甫の大いなる余沢が、後世の詩人たちに恵み与えたところは多大である。故に元稹はいう、「詩経詩人のかた、いまだ子美のごときものはない」と。杜甫はまたよく時事を述べたが、調子がよくて対句がうまく、千言を費しても少しも緩むところがない。そうした時は世に詩史と呼ばれている。昌黎公の韓愈は、文章においてはなかなか人を認めなかったが、歌詩に至っては独り推挙していうのに、「李杜に文章の在りて、光は万丈も長し」と。その評言はまことに信頼してよいといえよう。 王勃は、字は子安で、絳州(山西省)龍門の人である。六歳にして文章をよくし、九歳で顔師古が注釈した『漢書』を読め、誤ちを指摘し間違いを見つけ出した。麟徳年間(664-665)初頭、劉祥道が関内を巡行し、王勃は書をたてまつって自らの意見を述べたから、劉祥道は朝廷に上表し、成績優秀で合格した。年齢はまだ加冠の歳ではなかったが、朝散郎を授けられ、しばしば頌を宮中に献上した。沛王李賢はその名を聞いて、召しかかえて沛王府の修撰とし、論じて「平台秘略」を著した。書が完成すると沛王は寵愛して重んじた。当時、諸王たちは闘鶏をしていたが、王勃は戯れに「英王(後の中宗)の鶏に檄する文」をつくったから、高宗は「これがもとで諍いとなるだろう」と怒り、出府をさしとめた。 王勃は失脚すると、剣南の地で客となった。かつて葛憒山に登って展望し、慨然として諸葛亮の功績を思い、詩を賦して心内を詠んだ。虢州に薬草が多いことを聞いて、参軍に任命されることをのぞんだ。才能を鼻にかけて傲慢に振る舞ったので、同僚の憎しみを買った。官奴の曹達が罪を犯したのを、王勃が匿ったが、事が露見するのを恐れて、たちまち殺してしまった。事件が発覚して死刑にあたるところを、たまたま恩赦にあって除名のみとなった。父の王福畤は雍州司功参軍であったところを、王勃に連座したため交阯令に左遷された。王勃は父に会いに行く途中、海を渡ったところ水に溺れ、衰弱して卒した。年二十九歳。 それより以前、旅して鍾陵に出て、九月九日に都督の大宴が滕王閣で行われ、その婿に命じて作らせた序を客に見せびらかしており、そこで紙と筆を出してきてしきりに客に請うのであったが、あえて誰もそれにあたる者はいなかった。王勃の所に来ると、おおらかにも辞退しなかった。都督は怒り、席を立って着替えに行くとみせかけ、官吏を遣わしてその文をつくる様子を伺わせて逐一報告させた。一度、二度と都督のもとに報告がくるたびに、語はますます優れていき、そこでハッとして「天才だ」といい、ついに都督は王勃に文を完成させることを頼み込んだ。そのため場は喜びに満ちて解散となった。王勃は文をつくると、はじめからとくに考えもせずに、まず墨を磨いて数升すり、呑んで酩酊して布団を引っ張って寝転がり、目覚めると筆を走らせて篇を完成させ、一字も変えることがなかったから、当時の人は王勃のことを「腹稿」といった。王勃はとりわけ著述を好んだ。 それより以前、祖父の王通は、隋末に白牛渓にいて、門人を教えていたがその数は非常に多かった。かつて漢・魏より晋まで書をつくること百二十篇、古尚書に続かせたが、後にその序は失われてしまい、書に無いもの十篇を再録し、王勃が欠損を補完し、定めて二十五篇を著した。かつて人の子は医術を知らないでいるべきではないと言い、当時長安の曹元なる秘術つかいがいて、王勃は彼に学び、その要領を尽くしたのである。かつて『易経』を読んでいると、夜に夢で告げる者があり、「易には太極がある。お前は懸命に研究しなさい」と言い、目覚めると『周易発揮』数篇をつくったが、「火地晋卦」の部分にいたるとたまたま病に罹ったため止めてしまった。また、「王者で土徳の王は、世代は五十代で千年にもなる。金徳の王は、世代は四十九代で九百年。水徳の王は、世代は二十代で六百年。木徳の王は、世代は三十代で八百年。火徳の王は、世代は二十代で七百年。これは天地の一定不変の期限である。黄帝から漢までが五行の順序通りの帝王で、五行が一巡りし、土運がもう一度唐に戻ってきた。唐は周・漢を受け継ぎ、北周・隋の短い時代を受け継いではならない」と延べ、そこで魏・晋以降は真主正統ではなく、皆五行の災害不祥の気であるとし、ついに『唐家千歳暦』をつくった。 武后の時、李嗣真は周・漢を二王後(前朝待遇)として、北周・隋を二王後から廃することを願い出た。中宗は再び北周・隋を二王後とした。天宝年間(742-756)、太平なること久しく、上言する者の多くは欺いてこれまでとは違うものをすすめようとした。崔昌なる者が王勃の旧説を採用し、五行応運暦を献上し、周・漢を二王後として、北周・隋を二王後から廃して非正統とし、右相の李林甫がまた賛同して補助した。公卿を集めて可否を議させると、集賢学士の衛包・起居舎人の閻伯璵が上表して、「都堂集議の時、四星が尾に集まっており、天意はあきらかなのです」と言ったから、ここに玄宗は詔を下して唐は漢王朝の後継をとし、隋以前の帝王をしりぞけ、介国公(北周の後裔)・酅国公(隋の後裔)を廃し、周・漢を尊んで二王後とし、商を三恪とし、京城に周の武王・漢の高祖の廟を建立した。崔昌に太子賛善大夫を、衛包に司虞員外郎を授けた。今度は楊国忠が右相となると、自ら隋の宗室であると自称し、建議して再び魏を三恪とし、北周・隋を二王後とし、酅国公・介国公の二公に再び旧封を授け、崔昌を烏雷尉に、衛包を夜郎尉に、閻伯璵を涪川尉に左遷した。 王勃の兄の王勮、弟の王助は皆進士に及第した。 王勮は、長寿年間(692-693)に鳳閣舎人となり、寿春王李成器ら五王が宮中を出て封地に赴任することとなり、役人が儀式を準備したが、冊文を記載し忘れてしまい、群臣はすでに勢ぞろいしており、そこでその落ち度があることが発覚し、宰相は顔色が真っ青となった。王勮は五人の官吏を呼び寄せて執筆させ、それぞれわけてその文を口述筆記させると、鮮やかにすべて終わってしまった。人々は感服した。ついで弘文館学士を加えられ、天官侍郎を兼任した。それより以前、裴行倹が官吏の選考をつかさどって、王勮と蘇味道を見て、「この二人は人事選考の才能がある」と言い、ここに到って言った通りとなった。王勮はもとから劉思体と親しく、用いて箕州刺史としたが、綦連耀とともに謀反したため、王勮と兄で涇州刺史の王勔が助力したとして全員連座して誅殺された。神龍年間(705-707)初頭、詔して復官した。 王助は、字は子功で、七歳にして母を失って哀惜の声をあげ、隣里に泣き声が届くほどであった。父の喪になると、悲しみのあまり痩せ細って骨ばかりとなった。服喪がすぎると、監察御史裏行となった。 それより以前、王勔・王勮・王勃は皆才名があらわれ、そのため杜易簡は「三珠樹」と称した。その後王助・王劼もまた文によって名があらわれた。王劼は若くに卒した。王福畤の末っ子の王勧もまた文名があった。王福畤はかつて韓思彦に自慢し、韓思彦は戯れに、「武氏の子に馬癖があり、君には自分の子を誉める癖がある。王家の癖はなんと多いことなのか」と言ったから、王福畤は王助に文章をつくらせて出させた。韓思彦は、「あんな子が産まれたら、そりゃ自慢したくもなるよ」と言った。 王勃と楊炯・盧照隣・駱賓王は皆文章によって名を等しく知られ、天下は「王・楊・盧・駱」と称し、「四傑」と号した。楊炯はかつて「盧の前に置かれるのは気がひける。王の後に置かれるのはしゃくにさわる」と言ったが、議する者はそうだと言い合った。 楊炯は、華陰の人である。神童科の試験に合格し、校書郎を授けられた。永隆二年(681)、皇太子が釈奠を執り行った時、上表して天下の英俊を崇文館学士に充てることとなり、中書侍郎の薛元超は楊炯および鄭祖玄・鄧玄挺・崔融らを推挙し、詔して認可された。詹事司直に遷った。しばらくして従父弟の楊神譲が徐敬業の乱に参加したのに連座して、都より出されて梓州司法参軍となった。盈川県の県令となり、張説は行くのに際して箴を贈り、その苛烈な性格を戒めた。官となると、果たして厳しく酷薄で、官吏は少しでも意に違えば、笞打って殺し、人でなしなことが多かった。在官のまま卒し、中宗の時に著作郎を贈られた。 盧照隣は、字を昇之といい、范陽の人である。十歳のとき、曹憲・王義方について古代の字書を学んだ。鄧王李元裕の宮家で典籤に任命されたが、王はことのほかめをかけ、人に向かって「この男はわしの司馬相如だ」といった。新都県の尉に任命されたが、病気のため官を去った。太白山に住み、方士の調合した玄明膏を手にいれて 服用した。ちょうど父の死去にあい、号泣して吐き気をもよおし、腹にあった丹薬が出てしまった。このことから病気はいっそうひどくなった。東龍門山に身を寄せたが、そまつな衣服に野菜のスープといった生活で、裴瑾之・韋方質・范履冰などが、しょっちゅう衣服や薬をおくってくれた。病気はひどくなり、足はひきつり、片手も役に立たなくなった。そこで具茨山の麓に行き、数十畝の畑を買い、緑水の川から水を引き、家の周囲にめぐらした。またあらかじめ墓を作り、その中に身を横たえた。盧照隣は思いめぐらすと、高宗の時代(649-683)には実務家を尊重したのに自分ひとりが儒者であり、武后の時代(684-705)には法律万能であったのに自分ひとりが道教にこり、武后が嵩山で天を祭る儀式を行い、度々すぐれた人物を招聘するようになったときには、自分は役に立たなくなっていると考えたから、「五悲」という文章を書いて、自分の気持ちを明らかにした。永年の大病の末、親類縁者と訣別し、穎水に身を投げた。 駱賓王は、義烏の人である。七歳で詩を作ることができた。最初、道王李元慶家の属官となった。あるとき、王は自分の得意とすることを述べさせたが、駱賓王は返答しなかった。武功県の主簿を歴任した。裴行倹が洮州総管になると、書簡・上奏を担当させようと、かれの任命を申請したがかれは応じなかった。長安県の主簿に任じられた。武后時代、たびたび上奏文をたてまつって意見を具申し、臨海県の丞(次官)に左遷された。くさくさして心が満たされず、官を捨てて去った。徐敬業が反乱を起こすと、その幕僚とした。駱賓王は徐敬業のために檄文を書いて天下に呼びかけ、武后の罪を指弾した。武后は読んでせせら笑っていただけだったが、「一抔の土未だ乾かざるに、六尺の孤いずくにか在る」という箇所までくると、きっとなって「誰がこれを書いたのか」といった。駱賓王ですと答えるものがあると、武后は「宰相がどうしてこれほどの男をほうっておいてよいものか」といった。徐敬業が敗北すると、駱賓王は逃亡し、その行方は分からなかった。中宗の時代、詔勅を下してかれの文章を探し求め、数百篇を得た。 後年、崔融が張説に向かって王勃らを批評して、「王勃の文章は壮大で普通人の及ぶところではない。楊炯・盧照隣ならば追いつくことができる」。張説は「そうではない。楊盈川(楊炯)の文章は、たぎり落ちる滝のようで、酌んでもつきない。盧照隣よりもすぐれ、王勃にひけをとらぬ。王勃・楊炯・盧照隣・駱賓王は四傑といわれ「王楊盧駱」と称されたのに対し、楊炯はかつて「わしは盧の前に置かれるのは気がひける。王の後に置かれるのはしゃくにさわる」といったが、後に置かれるのはしゃくにさわるとは、なるほどもっともだ。前に置かれるのは気がひけるとは、謙遜である」といった。 開元年間(713-741)、張説は徐堅と近代の文章を評論した。張説は「李嶠・崔融・薛稷・宋之問の文章は、良質の金、美しい玉のようで、何にでも適用できる。富嘉謨は孤峯絶壁が万仞の高さにそそりたち、密雲わき起こり、鳴りとどろくいかづちが一斉に発するようで、いかにもいかめしいが、もし宮廷・宗廟に用いるならば、度胆をぬくであろう。閻朝隠はきらびやかな衣服にあでやかな化粧をし、燕の国の歌をうたい趙の国の舞をまっているようで、観客は疲れを感じない。もしこれを詩経の仲間に入れようとすれば、とんでもないことになる」といった。徐堅が「現代はどうだね」とたずねると、張説は「韓休の文章は大羹玄酒のように、典雅であるけれども、滋味は少ない。許景先は豊満できめ細やかな肌のように、華やかさは愛すべきだが、迫力に乏しい。張九齢は軽やかな白絹のように、当面の実用にはなるが、はばがせまい。王翰は玉の杯のように、あざやかで珍重すべきだが、きずが多い」。徐堅はもっともな議論だと言ったよしである。 元万頃は、後魏(北魏)の京兆王の元子推の末裔である。祖父の元白沢は、武徳年間(618-623)、仕えて梁・利の十一州都督となり、新安公に封ぜられた。元万頃は家の蔭位によって通事舎人に任じられた。 李勣に従って高麗遠征に従軍し、管書記となった。李勣は別将の郭待封に命じて水軍で平壌に向かわせ、馮師本に兵糧を運搬させて後詰めとしたが、間に合わなかったか。李勣に知らせようと思ったが、諜報によって敵の手に落ちることを恐れ、元万頃は作離合詩をつくって李勣に元に送った。李勣は「軍機が切迫しているのに、どうして詩なんかをつくったのか」と言い、郭待封を斬ろうとしたから、元万頃は詩の意味を読み解いたから、助命された。ま元万頃に高麗を責める檄文を作らせたが、鴨淥の要衝を守る者がいないと非難したところ、莫離支(泉男生)が「謹んでご命令を聞こう」と答えて兵を移動させて防衛したから、軍は進入することができなかった。高宗はこれを聞いて、元万頃を嶺南に流謫した。 赦されて召還され、著作郎となった。武后は帝にほのめかして諸儒を召集して禁中で論述させ、元万頃は周王府戸曹参軍の范履冰・苗神客・太子舎人の周思茂・右史の胡楚賓とともに選にあたり、『列女伝』・『臣軌』・『百寮新戒』・『楽書』等の九千篇あまりを編纂させた。朝廷に疑議の表疏が来るとすべて密使が元万頃らのもとに来て、宰相の権限を分割するようなものであったから、そのため当時の人は「北門学士」と呼んだ。周思茂・范履冰・苗神客は帝の左右に供奉することは約二十年あまりにも及んだ。 元万頃は文章に巧みであったが、放縦で細かいことにこだわらず、儒者の雰囲気がなかった。武后の時、累進して鳳閣侍郎となったが、連座して誅殺された。 范履冰は、河内の人である。垂拱年間(685-688)、鸞台天官二侍郎・春官尚書・同鳳閣鸞台平章事(宰相)を歴任し、修国史を兼任した。載初年間初頭(689)、叛乱摘発に連座して殺された。 苗神客は、東光の人で、著作郎で終わった。 周思茂は、漳南の人であり、弟の周思鈞とともに早くから名を知られた。累進して麟台少監・崇文館学士となった。垂拱年間(685-688)、獄に下されて死んだ。 胡楚賓は、秋浦の人である。文章をつくるのがかなり速く、必ず酒を飲んでから筆を取った。高宗が作文を命じた時に、常に金銀の杯酒を賜って飲み、文章が完成すると杯を賜った。家にいてもいつも飲んでいたから、蓄えが貯まらず、金が尽きるとまた宮中に入り、賜い物を得て出てくる、いつもそんな感じであった。性格は慎重で、禁中の事を語ったことはなく、ある人が酔わせて聞いてみたが、また熟視するだけで答えなかった。崇賢直学士を兼任し、卒した。 元万頃の孫の元正は、名節をおさめたから、明経に挙げられて成績優秀で及第し、監門衛兵曹参軍を授けられた。舅の孫逖と物の理を話し合い、おのれが及ばないことを歎いた。粛宗の在位の初め、吏部尚書の崔寓典が選にあたり、元正を書判第一として召還して京師に到らせようとしたが、父の元詢倩が老いて、看病するからとして辞退した。河南節度使の崔光遠が上表してその幕府に置いた。史思明が河・洛の地を陥落させると、父を載せて山中に隠れたが、賊はその名声を求めたから、元正は事が急であると考え、弟に「賊の禄で親を養ってはならない。彼らが私の名で利することを免れることは難しいだろう。しかし身を汚さずに死ねば、私は生きているようなものだ」と言った。賊は元正を捕らえると、高位で誘ったが、目を怒らせて固く拒絶したから、兄弟は全員殺害され、父も聞いいて毒薬を仰いで死に、路行く人々は涙を流した。乱が平定されると、詔して節義で斃れた者十一姓を記録したが、元正をその冠とした。秘書少監を贈られ、その子の元義方を華州参軍とした。 元義方は、京兆府司録に任じられ、韋夏卿・李実継が京兆尹となると、事がおこると必ず諮問された。虢州と商州の二州の刺史、福建観察使を歴任した。宦官の吐突承璀は閩(福建)の人であり、元義方はその親族を用いて側近とした。李吉甫が再度宰相となると、密かに吐突承璀の宮中の奥での助けを望み、そこで元義方を召還して京兆尹とした。李絳はその党派を憎み、京師から出して鄜坊観察使とした。すべての統治の方法は過酷であったから、人々の多くは怨んだ。卒すると左散騎常侍を贈られた。 弟の元季方は、明経科に推挙され、楚丘県の尉に任命され、殿中侍御史となった。兵部尚書の王紹が上表して度支員外郎となり、金・膳二部の郎中となり、「能職」と号された。王叔文が重用されると、元季方を嫌ったから用いられず、兵部郎中として新羅に派遣された。新羅では中国の喪を聞いても、常に使者を派遣するわけではなく、供物も乏しかったから、元季方は色を正して責め、戸を閉ざして絶食して死を待った。夷人は悔いて謝り、好を結んで帰還した。卒した時、年五十一歳で、同州刺史を贈られた。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百 列伝第一百二十五 『新唐書』巻二百一 列伝第一百二十六 巻二百二 列伝第一百二十七
https://w.atwiki.jp/sg2angel/pages/166.html
三国志正史問題・三国志演義問題・雑学問題 問題 答え 国家末年の際、外戚と宦官が絶えず争っていたため、中央政権が長期にわたり衰弱したのはどの王朝ですか? 後漢 三国時代、次のうち「青州」にあった城池はどれですか? 北海 三国時代、次のうち「冀州」にあった城池はどれですか? [業β] 三国時代、次のうち「雍州」にあった城池はどれですか? 安定 三国時代、次のうち「徐州」にあった城池はどれですか? 下[丕β] 三国時代、次のうち「豫州」にあった城池はどれですか? 汝南 三国時代、次のうち「荊州」にあった城池はどれですか? 新野 蜀漢、曹魏、孫呉の正式な立国の順序は次のうちどれですか? 曹魏→蜀漢→孫呉 次の戦略推論のうち、実現しなかったのはどれですか? 諸葛亮の「隆中対」 張角は何を教えましたか? 道教 「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」にある「黄天」とは誰を指しますか? 太平道 後漢末期、張角を慕う信徒が数十万人に達し、八州に広がりました。この八州に含まれないのは次のうちどれですか? 涼州 三国志 の記載によると、次のうち生捕りになった黄巾賊の将領は誰ですか? ト巳 次のうち、黄巾軍を討伐したことがないのは誰ですか? 馬騰 動物の血を用いて張宝の法術を破ることを提案したのは? 朱儁 霊帝に嘘の訴えをして盧植を都へ返したのは誰? 左豊 宮中入りし皇后になったのは何進の身内の誰? 妹 「黄絹幼婦」という言葉には、どのような隠れた意味がありますか? 絶妙なほめ言葉 十常侍が何進を暗殺し、宮廷が大混乱を招いた時、少帝は北[亡β]山で道に迷いましたが、最初に彼を発見したのは誰ですか? 閔貢 董卓の弟に当たるのは誰ですか? 董旻 赤兎馬の正式名称は? ?(千里は違った) 三国の中で騎馬に長けた弓の名射手で、西漢の名将李広にもかなうと言われ、「飛将」との異名を取ったのは誰ですか? 呂布 董卓が呂布を説得しようとした時、自ら説得役を買って出た部下は誰ですか? 李粛 次のうち、天子を脅して長安へ遷都し、洛陽を焼き払ったのは誰ですか? 董卓 楚荘王の「武将報恩」の話を用いて董卓が呂布を殺すべきである事情を説明したのは誰ですか? 李儒 「千里の草、何ぞ青々たる、十日の卜、生きることを得ず」とは誰を指していますか? 董卓 董卓が京禅に戻り帝位に就くとして騙された時、ビウを守らなかったのは誰? 李儒 殺された後、腹の脂で明かりを灯したと言われるのは、次のうちどの三国人物ですか? 董卓 漢朝の司徒王允はどのようにして亡くなりましたか? 董卓の部下に殺された 董卓の死、誰が乱を続けましたか? 李[イ宀隹]と郭汜 三国一の猛将呂布が手下となったことがないのは、次のうち誰ですか? 司馬懿 呂布には何人の妻妾がいましたか? 3人(娘を産んだ厳氏・貂蝉(正史では名前は不明【董卓の侍女】)・曹豹の娘) 次のうち、呂布の軍師となったことがあるのは誰ですか? 陳宮 下[丕β]の戦いで曹操に水淹の計を提案し、呂布軍を攻撃するよう提案したのは誰ですか? 郭嘉(荀攸は×) 侯成は赤兎馬を盗み、誰に贈りましたか? 曹操 袁術は玉璽を手にした後、197年に寿春にて自らを天子と名乗り、さらに何と号しましたか? 仲家 「袁公路大起七軍、曹孟徳会合三将軍(袁公路、大いに七軍を起こし、曹孟徳は三将を会合せしむ)」の「三将」に含まれないのは、次のうち誰ですか? 司馬懿 西暦197年、曹操が袁術の元へ東征した際、袁術は軍を棄てて逃げ、四人だけが[艸革馬]陽に残り曹操への抵抗を続けましたが、この四人に含まれないのは誰ですか? 紀霊 西暦197年、曹操が袁術の元へ東征した際、袁術は軍を棄てて逃げ、四人だけが?陽に残り曹操への抵抗を続けましたが、この四人に含まれるのは誰ですか? 樂就 公孫[王賛]の手下として働いたことがないのは? 雷薄 次のうち、槃河に兵を置き、朝廷に袁紹の十項の罪状をしたため、諸州郡と共に袁紹を討とうとしたのは誰ですか? 公孫[王賛] 中国後漢末期の軍閥混乱時期において、袁紹と公孫[王賛]は冀州を奪いあい、どこで戦を起こしましたか? 界橋の戦い 「孔融、四歳にして梨を譲る」という言葉は次のどの書物に書かれていますか? 三字経 「父母於子女無恩論」父母は子供たちにに対して養育の恩を持つが、出生の恩は持たないと論じていたのは誰? 孔融 北海の戦いで、孔融から平原に向かい劉備に援軍を求めよと命じられたのは誰ですか? 太史慈 孔融は誰に攻撃され、同郷の太史慈を遣わせて援軍を呼びましたか? 黄巾の残党 次のうち、孔融の手下として働いたことがないのは誰ですか? 簡雍 次のうち、陶謙の手下として働いたことがないのは誰ですか? 太史慈 袁紹は手下を誰に見立てた軍隊を派遣し、公孫越を倒しましたか? 孫堅 袁紹はどのような方法で公孫[王賛]の無敵の白馬陣を破りましたか? 弓兵 袁紹が易京楼を破るために用いた策は? 火攻め 次のうち、袁紹の実績でないものはどれですか? 許昌の奇襲 官渡の戦いで、遠征軍の軍糧所在地であるどこを曹操に攻め入られ、袁紹の遠征軍は士気を失い敗退しましたか? 烏巣 官渡の戦いで、曹操は袁紹の兵糧がどこにあると知り、勝利のチャンスを得ましたか? 烏巣 官渡の戦いノ後、袁紹の手下の将領たちが次々と曹操に投降しましたが、この時に投降しなかったのは誰ですか? 田豊 「遁甲天書」はどの仙人が持っていた物ですか? 左慈 左慈は三国時代の仙人として伝えられてますが、その道号は何でしたか? 烏角先生 次のうち「建安の三神医」でないのは誰ですか? 于吉 漢献帝が廃帝された後、曹丕より何を与えられましたか? 山陽公 「鼠に石を投げたいが、近くに器があって投げられない」とは、三国の誰を指す言葉ですか? ?(謝雄×・曹操・李恢×・黄蓋) 次のうち、二人の関係が他と異なるのはどれですか? 曹操と曹洪(実の兄弟。他は義兄弟(孫策と周瑜・劉備と関羽・馬騰と韓遂)) 「子は治世の能臣、乱世の奸雄なり」と曹操を評した人物は誰ですか? 許劭 「治世の能臣、乱世の奸雄」とは、三国のどの人物を指した言葉ですか? 曹操 曹操は黄巾賊を討伐した功績が認められ、何に昇格されましたか? 済南相 夏侯惇の字(あざな)は何ですか? 元譲 次のうち、14歳の時に師匠から武術を学び、ある人が師匠を侮辱したために、その人物を殺して逃げたのは誰ですか? 夏侯惇 曹操に「天子を奉じて衆望に従うこと、比なき大略なり」と勧めたのは誰ですか? 荀彧 曹操はどこで天子の名を騙り諸侯に号令しましたか? 許昌 曹操が董卓を追撃し、敗戦した時、「天下に公なかるべからず」と言って必死に曹操を助けたのは誰ですか? 曹洪 「古き国の司直、我が周昌なり」と曹操から言われたのは? 毛[王介] 曹操の父曹嵩は、宦官曹騰の養子となったために曹と姓を改めましたが、本来は何という姓でしたか? 夏侯 曹操の父親である曹嵩はなぜ殺されたのですか? 財産を狙われたため 西暦193年に曹操はどのような理由で兵を興し、陶謙を討ちましたか? 父親が刺されたため 次の魏将のうち戦場で戦死したのは誰ですか? 典韋 曹操が[亠兌]州で興したのは何兵ですか? 青州兵 曹操が「将軍が忙しい時に、兵を整え、陣を張り、他人の非難をよそに軍に勝利をもたらすとは、古の名将も及ぶところではない」と評価したのは誰ですか? 于禁 劉備と呂布を仲違いさせるため、荀彧は曹操に二虎競食の計と何の計を提案しましたか? 駆虎呑狼の計 曹操と張繍の宛城の戦いで、曹操に馬を渡し、自分は矢に打たれて死んだのは、曹操のどの息子ですか? 曹昂 次のうち、力は虎のように強いが無知だったため、「虎痴」と呼ばれたのは誰ですか? 許[示者] 「孤にして大業を成しむ」と曹操が言ったのは誰のこと? 郭嘉 「月明るく星稀にして 烏鵲が南に飛び、樹を繞ること三匝、何れの枝にか依る可き」という詩は、誰の作品ですか? 曹操 曹操が「上辺だけの小心者で、陰謀を好むが決断力がない」と評したのは誰ですか? 袁紹 関羽が劉備の行方を知った時、曹操は誰を派遣し、関羽に自分の元に残る気があるかどうか尋ねましたか? 張遼 三国志 によると、官渡の戦いの時に烏巣を守った淳于瓊は。魏国のどの将領に捕らえられましたか? 樂進 官渡の戦いにおいて曹操はどのような原因で兵を退けましたか? 兵糧不足 官渡の戦いで、曹操はどの謀士の提案を受けて兵を退けず、最終的に勝利しましたか? 荀彧 鳥巣を守り、殺害されたのは? 麹義(誤植かも?) 次のうち、官渡の戦いの状況に当てはまらないのはどれですか? 曹兵が多くて食糧不足になった 「兵は神速を貴ぶ」とは兵を迅速に起用することの大切さを意味しますが、この成語は誰と関係がありますか? 郭嘉 借刀殺人の計とは、曹操が袁紹と誰の仲違いを利用し、自分の有利になるよう図った作戦ですか? 公孫康(ちなみに借刀殺人という名称は、後代の宋兵法三十六計より。) 「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」とは曹操の郭嘉に対する思いですが、郭嘉はどのように亡くなりましたか? 病死 曹操は徐庶の家族を脅して投降させましたが、その家族とは誰ですか? 母親 船上で象の重さを計る方法を提案したのは? 曹沖 曹操はある人物が送った象の重さを知りたがったが、最終的に息子の機知により回答を得ることができました。曹操に象を贈ったのは誰ですか? 孫権 曹操が[シ章]河に一楼を築き、贅沢をしたと言われる場所は次のうちどれですか? 銅雀台 「銅雀台の賦」は誰が書いたものですか? 曹植 銅雀台で弓を射る競争を観るため曹操は部下をどの2色に分けましたか? 赤と緑 ある戦いの後、曹操が「若し奉孝あらば、決して我に此の敗戦をもたらさん」と嘆いたのはどの戦いですか? 赤壁の戦い 次のうち、 三国志 に記載があるのは誰ですか? 蒋幹 赤壁の戦い前に、曹操が蒋幹を遣わせて周瑜に会いに行かせた主な目的は何ですか? 周瑜が投降するよう説得するため 赤壁の戦いの時、曹操は黄蓋の火船が近づくのを防ぐため、誰を派遣しましたか? 文聘 名将張遼が一番先に頼った人物は誰ですか? 丁原 張遼が参戦したことがあるのは? 赤壁の戦い 曹操が「天山に登り峻険を踏み越え、陳蘭・梅成を捕まえた盪寇の功績なり」とその仕事ぶりを褒め称えたのは誰ですか? 張遼 張遼が合[シ肥]の戦いの後、曹操に与えられた職位は何ですか? 征東将軍 司馬懿の字(あざな)は何ですか? 仲達 管路が曹操のために詠んだ詩「三八を縦横して、黄猪は虎に遭い、定軍の南に一股を傷つき折る」の中で、「一股を傷つき折る」とはどの将領を指していますか? 夏侯淵 渭水の河川で早々は危うく馬超に捕えられるところでしたが、次のどの将領が彼を逃しましたか? 許[示者] 荀彧は曹操の重要な謀士の一人ですが、どのような理由から曹操の理念に背き、不仲となりましたか? 魏公を封じようと理念に反対した 襄樊の戦いが始まった後、曹操はこれを非常に重視しました。 三国志 の記載によれば、曹操は前後に合計何度の援軍を出しましたか? 5回 樊城の戦いで、樊城を死守し、魏軍の援軍を従えて関羽を撃退したのはそれぞれ誰ですか? 曹仁と徐晃 曹操はなぜ献帝の董妃を殺そうと考えましたか? 曹操を排除しようと知恵したため 中国史上で初めて麻酔を使って病人の手術を手がけた外科医は誰ですか? 華佗 「鳥の将に死なんとする其の声や悲し、人の将に死なんとする其の言うことや善し」とは誰の遺言ですか? 曹操 「虚名を求めて実害を招くべからず」とは誰の言葉? 曹操 曹操は何歳で亡くなった? 54歳 三国名将の[广龍]徳が参加しなかったのは、次のどの戦ですか? 赤壁の戦い 曹植が作成した賦で、曹操は呉を制した後は、二喬と言われる美女二人を楽しむと誓う、という意味を持つ賦を何と言いますか? 銅雀台賦 曹植の「豆を煮るに豆がらを燃やし、豆は釜の中で泣く。本は根を同じくして生ぜしに、相煎ることは何ぞはなはだ急なる」とは、どのような人間関係を例えたものですか? 兄弟 曹植は十一年の内に封地を四度遷移しましたが、最後に封じられたのはどこですか? 陳王 「九品官人制」とは誰が提示したものですか? 陳羣 曹丕は劉備天子が亡くなった後、五路大軍で蜀に攻め入りましたが、この大軍に含まれなかった支軍隊は次のうちどれですか? 司馬懿 魏国曹丕の諡号は何ですか? 文帝 曹丕は「これまた古の召虎なり」と評したのは、どの名将ですか? 樂進(正しくは張遼だが×) 三国時代における「建安三曹」の三曹とは誰を指しますか? 曹操、曹植、曹丕 鍾ヨウは曹魏政権の大臣ですが、同時に当時有名な芸術家でもありました。どのような芸術家でしたか? 書法家 「車載斗量」とは、量が大変多く、とりたてて価値がないという意味ですが、この成語と関係があるのは次のうち誰ですか? 趙咨 「老牛舐犢」とは親が子を溺愛することを意味しますが、この成語は誰と関係がありますか? 楊彪 程昱が定住したのはどこですか? 東郡 司馬懿の軍隊が反乱を起こしたと聞いて、姉の辛憲英に職位を守り、軽率に動かないよう勧めたのは誰? 辛敞 曹真が蜀を討った時、どの地方を越えて進軍することを考え、惜しくも大雨に遭って撤退を余儀なくされたか? 子午谷 司馬懿と諸葛亮が対決したとき、司馬懿は誰に道を探すように命じ、街亭に守衛がいれば守衛兵の言うとおりにするよう命じたのは誰ですか? ?(張?は×) 韓徳はどの武器を持っていましたか? 開山大斧 明帝曹叡は、誰かの入朝の際に拝礼をしなくても良いと決めたため、その後三公が病気をしても拝礼をしないことの先例となりました?その誰かとは? 鍾ヨウ 西暦240年、曹芳 蘭卿が即位した後、大尉司馬懿とどの大将軍が共同で政権を補佐しましたか? 曹爽 [死せる孔明 仲達を走らす」という言葉が生まれたのはどの戦ですか? 五丈原の戦い 諸葛家が三国で名を馳せた時に、当時人々は「魏は其の犬を得たり」と言いましたが、犬とは誰を指しますか? 諸葛誕 次のうち、鄧艾の息子はは誰ですか? 鄧忠 西暦263年、諸葛瞻が綿竹で交戦し、兵力不足のため諸葛瞻と長男の諸葛尚がともに戦死した時の対戦相手は誰ですか? 鄧艾 蜀を討伐した司馬昭は、何の官職を与えられましたか? 鎮西将軍 「天高くとも上ることもできず、田はあれど見ることもできず」とは誰の言葉? 曹髦 孫堅の4人の息子のうち、一番年下なのは誰ですか? 孫匡 孫堅はどの城を包囲した時に戦死しましたか? 襄陽 孫策の字は何ですか? 伯符 孫策は神亭嶺で、どの三国名将と対決しましたか? 太史慈 対孫策において太史慈は何を奪いましたか? 兜 孫策が小覇王と称されたのは何故か? ?(一戦いで~ は違った) 西暦200年、孫策が暗殺されると、孫権による相続は多くの人々の不満をあおりましたが、三郡を見回り不満を唱えた人を討伐したのは誰ですか? 程普 次のうち、全身12ヶ所を矢で刺されながらも必死で孫権を守ったため、孫権に敬愛されていた名将は誰ですか? 周泰 次のうち、間諜として働いたことがないのは誰ですか? 魯粛 三国時代、周瑜は誰に軍糧を借り、相手はその半分を分け与えて親友となりましたか? 魯粛 次のうち、東呉の「四大都督」に当たるのは誰ですか? 陸遜(大都督は周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜) 周瑜の水軍が曹操と交戦した時、最初にどこで勝利しましたか? 三江口 三国赤壁の戦いの中で、黄蓋はどのような任務を負いましたか? 丹陽督尉 次のうち、戦時中に流れ矢に当って水に落ち、救助された時に呉軍が彼を誰だか分からず、厠の寝床に置かれたのは誰ですか? 黄蓋 周瑜の死因は? 病死 次のうち、臨淮東城の出身は誰ですか? 魯粛 諸葛亮は三分天下の計を利用しましたが、二分天下の計を提案したのは誰ですか? 魯粛 三国時代の呉国の丞相顧雍は、次のうち誰の門下生ですか? 蔡[巛邑] [門敢]沢が定住したのはどこですか? 会稽 呂蒙を鄧当に代わって推薦したのは誰? 張昭 「士、別れて三日なれば、刮目して相待つ」とは誰の言葉ですか? 呂蒙 関羽にうかつにも荊州を失わせてしまったのは東呉の何という将領ですか? 呂蒙 劉備は誰から荊州を借り受け、返還しませんでしたか? 孫権 南郡の戦いの中で夷陵を攻めた後、曹純と牛金に包囲されたのは誰ですか? 甘寧 三国合[シ肥]の戦いについて正しい説明は次のうちどれですか? 孫軍対曹軍の戦い 次のうち、呉国の将領朱桓の功績でないのはどれですか? 周泰殺害 関羽を生け捕りにした呉将は誰? 潘璋 魏公曹操が東呉を攻めたとき、呉は曹操に何を与え兵を退かせたか? 一通の手紙 夷陵の戦いで、劉備が永安に兵を退けた後、陸遜が兵を退けた原因は何ですか? 魏国が攻め入られるのを心配した(魏国に) 陸遜が連営を焼き払った後、魏の侵入を防ぐために誰を濡須の護衛に当たらせましたか? 朱桓 次のうち、もともとは蜀国に属していたものの、最終的に呉国に身を寄せたのは誰ですか? 糜芳 東呉最後の名将は誰ですか? 陸抗 劉備、関羽、張飛の三兄弟のうち、年齢が大きい順で正しいのはどれですか? 劉備、関羽、張飛 劉備と公孫[王賛]は若い頃誰に学んでいたか? 盧植 劉備のために袁紹に協力を求める手紙を書いたのは誰? 鄭玄 三国志 の記載によると、劉備が曹操を裏切り袁紹と手を組もうとした時、劉備が結盟のために派遣した使者は誰ですか? 孫乾 劉備が新野へ落ち延びた時、諸葛亮の助言に従い江夏に使者を遣わして援護を頼みましたが、このとき派遣されなかったのは誰? 簡雍(?) 孫、簡、糜、伊の四人は劉備が手厚く待遇した人物たちですが、中でも最高は誰ですか? 糜竺(孫乾・簡雍・糜竺・伊籍の4文官) 劉備はどこに退守したときに阿斗母子と離れ離れになりましたか? 当陽 長坂の戦いで劉備に趙雲が北へ逃げたと報告した者がいましたが、劉備はこの人に何を投げつけましたか? 手戟 次のうち、密謀により劉備を蜀に迎え入れた主謀の一人でないのは誰ですか? 黄権 劉備が益州を奪う気であると劉璋にいったのは? 黄権 蜀国を建国したのは誰ですか? 劉備 三国漢中の戦いについて正しい説明は次のうちどれですか? 劉備と曹操による漢中争奪の争い 蜀漢の五虎名将の子ではないのは? 張虎 次のうち、不当な略奪ではない手段で帝位に就いたのは誰ですか? 劉備(選択肢が曹丕・司馬炎・王莽・劉備で、劉備は皇帝僭称、他3名は帝位簒奪に当たる為、劉備が正答になる) 三国の中で勢力は最も弱いものの、漢の正統を堅持し、他国と対抗したのはどの国ですか? 蜀 劉備が関羽と張飛の仇を報いるため、兵を派遣して征討しようとしたのは誰ですか? 孫権 劉備が兵を興し、呉国を討って失敗し、このため白帝城に逃げ込み、病に倒れて逝去したのはどの戦いですか? 夷陵の戦い 蜀漢国の勢力が衰え出したのは、どの戦いがきっかけでしたか? 夷陵の戦い 劉備が亡くなる前に自分の子供を託したのはどこ? 永安宮(?) 「身の丈九尺、顔色は棗のごとく」とは、三国のどの人物の風貌を指したものですか? 関羽 関羽が曹操に投降した時、曹操とどのようなことを決めましたか? 曹操ではなく漢王朝に降伏する 三国名将のうち、河北軍の軍容を見た後、「我観るに、顔良は首から売り札を下げるが如し」と言ったのは誰ですか? 関羽 関羽が五関を破り六将を斬った時、関羽は何番目の関で2人の防守将領を斬りましたか? 2番目 秦琪は誰に殺されましたか? 関羽 楊齢は誰に殺された? 関羽 孔明が博望破を焼き払った時、関羽はどこに潜んでいた? 豫山 関羽が参戦したことがあるのはどの戦ですか? 夷陵の戦い(誤植?) 次のうち、曹操の大将于禁の投降を受け入れ、その名を広く知られたのは誰ですか? 関羽 丈八蛇矛を持つのは誰ですか? 張飛 張飛が酔ったふりをして捕えたのは、曹操が劉備を牽制するために遣わした何という大将ですか? 劉岱 張飛の妻は誰の姪だと言われていますか? 夏侯淵 范彊と張達はなぜ張飛に鞭で打たれたのか? 白旗白衣を整えられなかった 当初、趙雲は家へもどり喪に服すため、公孫[王賛]に辞意を示しましたが、この時亡くなったのは趙雲の何に当たる人物ですか? 兄 趙雲を一躍有名にさせた戦いはどれですか? 長坂坡の戦い 「征袍を血に染めて甲まで紅く、当陽誰が敢えて鋒先を争うや」という言葉は誰を指しますか? 趙雲 「一身是肝」とは非常に度胸があることを意味しますが、この言葉は三国のどの将領から生まれた言葉ですか? 趙雲 馬超の兄弟に当たるのは、次のうち誰ですか? 馬鉄 馬超が太守韋康を殺したのはどこ? 涼州 「常に先陣を切って陣営を落とし~(中略)」と評されたのは誰? 黄忠 黄忠が劉表の手下として長沙を守っていた時、ともに長沙を守ったことがあるのは誰? 劉磐 関羽が「大丈夫たるもの、あのような老兵と並ぶことはできぬ」と言いましたが、老兵とは誰のことですか? 黄忠 劉備に対し、体は曹操軍にあろうとも、「生涯計謀を立てない」と誓った謀士は誰ですか? 徐庶 「伏竜」との異名を取ったのは三国のどの名士ですか? 諸葛亮 「鳳雛」との異名を取ったのは三国のどの名士ですか? [广龍]統 「可比興周八百年之姜子牙、旺漢四百年之張子房(800年の周朝を興した姜子牙と400年の漢王朝を栄えさせた張子房と比べられる)」のは誰ですか? 諸葛亮 諸葛亮の字(あざな)は何ですか? 孔明 諸葛亮には何人の兄弟がいましたか? 3人(?:史実は2人だが×。族弟の諸葛誕を兄弟に数えているのか?) 諸葛亮は隠居した時に、自分をどう例えていましたか? 管仲 創作された架空の出来事ではないのは? 三顧の礼 「初出茅盧」とは、初めて世に出ること、経験に乏しく、駆け出しであることを指しますが、この成語は誰と関係がありますか? 諸葛亮 孔明は博望坡で火を用いましたが、どこで水を用いましたか? 白河 諸葛亮が東呉に舌戦群儒を挑んだとき、最後にその他の人の弁論を制したのは? 黄蓋 「集思広益」とは、人々の知恵を集め、幅広く活用する事を指しますが、この成語は誰と関係がありますか? 諸葛亮 孟獲が投降するふりをしたのは何度目に生捕りされたときですか? 3度目 「鞠躬尽瘁、死してのちやまん」とは、どの人物を指す言葉ですか? 諸葛亮 諸葛亮が神を装ったのは、どこの麦を刈るためですか? 隴上 諸葛亮と司馬懿徒の間では、歴史上実際に発生したのは次のどれですか?(司馬懿との) 平五路安居 杜甫に「万古の霄の一羽毛」と褒められたのは誰ですか? 諸葛亮 [广龍]統の字(あざな)は何ですか? 士元 「卿ら状なくして我が州を侵奪す、我が州には断頭将軍あるのみ、降将軍はなし」とは、どの武将の言葉ですか? 厳顔 三国志 の記載によると、馬超が兵を興し曹操を討とうとして失敗した際、劉備が馬超を招き寄せるために派遣した使者は誰ですか? 李恢 馬謖と趙括の類似点でないのは? 指揮下手(?) 街亭の戦いの時、馬謖とともに街亭を守った副将は誰ですか? 王平 宴会の席で剣舞を舞いながら劉璋を刺すよう命じられたのは? 魏延 魏延を重視せず、火花を散らしていたのは誰? 楊儀 魏延を恨み、桟橋に火をかけたのは誰? 楊儀 劉?を殺し、?城を献上したのは? 張翼 姜維の字(あざな)は何ですか? 伯約 姜維の胆は何のように大きいか? 鶏の卵 姜維はどこで母親を助けようとして諸葛亮の計謀にはまりましたか? 天水 次のうち、諸葛亮に兵法を学んだ名将は誰ですか? 姜維 姜維は「陽平関」とどこを失ったら漢中を守りきることはできないと考えていましたか? 陰平橋 [シ文]山の平康で蛮族の反乱を鎮圧した蜀国の人物は誰ですか? 姜維 蜀で犯罪者として[シ文]山郡に流されたのは? 廖立 鄧艾に投降した後、妻がその行為を恥じて自ら首を吊り自殺したのは、江油のどの守将ですか? 馬[之貌] 三国志 の記載によると、劉禅は誰から生まれましたか? 甘夫人 費[示韋]の死後、劉禅はどの宦官を信用し、国政が日に日に衰えて行きましたか? 黄皓 劉禅が他界した後、晋は彼にどのような諡号を与えましたか? 安楽県思公 劉禅は後に人々から「どうしようもない○○」と言われましたが、○○とは何ですか? 阿斗
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/360.html
唐書巻五十八 志第四十八 芸文二 乙部史録、其類十三:一曰正史類、二曰編年類、三曰偽史類、四曰雜史類、五曰起居注類、六曰故事類、七曰職官類、八曰雜伝記類、九曰儀注類、十曰刑法類、十一曰目録類、十二曰譜牒類、十三曰地理類。凡著録五百七十一家、八百五十七部、一万六千八百七十四巻。不著録三百五十八家、一万二千三百二十七巻。 司馬遷『史記』一百三十巻 裴駰集解『史記』八十巻 徐広『史記音義』十三巻 鄒誕生『史記音』三巻 班固『漢書』一百一十五巻 服虔『漢書音訓』一巻 應劭『漢書集解音義』二十四巻 諸葛亮『論前漢事』一巻 又『音』一巻 孟康『漢書音義』九巻 晋灼『漢書集注』十四巻 又『音義』十七巻 韋昭『漢書音義』七巻 崔浩『漢書音義』二巻 孔氏『漢書音義鈔』二巻孔文祥。 劉嗣等『漢書音義』二十六巻 夏侯泳『漢書音』二巻 包愷『漢書音』十二巻 蕭該『漢書音』十二巻 陰景倫『漢書律暦志音義』一巻 項岱『漢書敍伝』八巻 劉宝『漢書駁義』二巻 陸澄『漢書新注』一巻 韋稜『漢書続訓』二巻 姚察『漢書訓纂』三十巻 顔游秦『漢書決疑』十二巻 僧務静『漢書正義』三十巻 李喜『漢書辨惑』三十巻 『漢書正名氏義』十二巻 『漢書英華』八巻 劉珍等『東観漢記』一百二十六巻 又『録』一巻 謝承『後漢書』一百三十巻 又『録』一巻 薛瑩『後漢記』一百巻 司馬彪『続漢書』八十三巻 又『録』一巻 劉義慶『後漢書』五十八巻 華嶠『後漢書』三十一巻 謝沈『後漢書』一百二巻 又『外伝』十巻 袁山松『後漢書』一百一巻 又『録』一巻 范曄『後漢書』九十二巻 又『論賛』五巻 劉昭補注『後漢書』五十八巻 張瑩『漢南紀』五十八巻 劉熙注范曄『後漢書』一百二十二巻 蕭該『後漢書音』三巻 劉芳『後漢書音』一巻 臧兢『後漢書音』三巻 王沈『魏書』四十七巻 陳寿『魏国志』三十巻 『蜀国志』十五巻 『呉国志』二十一巻並裴松之注。 韋昭『呉書』五十五巻 王隠『晋書』八十九巻 虞預『晋書』五十八巻 朱鳳『晋書』十四巻 謝霊運『晋書』三十五巻 又『録』一巻 臧榮緒『晋書』一百一十巻 干宝『晋書』二十二巻 蕭子雲『晋書』九巻 何法盛『晋中興書』八十巻 徐爰『宋書』四十二巻 孫厳『宋書』五十八巻 沈約『宋書』一百巻 王智深『宋書』三十巻 魏收『後魏書』一百三十巻 魏澹『後魏書』一百七巻 李徳林『北斉末修書』二十四巻 王劭『斉志』十七巻 又『隋書』八十巻 蕭子顕『斉書』六十巻 劉陟『斉書』十三巻 謝昊・姚察『梁書』三十四巻 顧野王陳書』二巻 傅縡『陳書』三巻 許子儒注『史記』一百三十巻 又『音』三巻字文挙、叔牙子也。証聖天官侍郎・潁川県男。 劉伯荘『史記音義』二十巻 『御銓定漢書』八十七巻高宗與郝処俊等撰。 顧胤『漢書古今集義』二十巻 顔師古注『漢書』一百二十巻 章懐太子賢注『後漢書』一百巻賢命劉訥言・格希玄等注。 韋機『後漢書音義』二十七巻 『晋書』一百三十巻房玄齢・褚遂良・許敬宗・来済・陸元仕・劉子翼・令狐徳棻・李義府・薛元超・上官儀・崔行功・李淳風・辛丘馭・劉引之・陽仁卿・李延寿・張文恭・敬播・李安期・李懐儼・趙弘智等修、而名為御撰。 姚思廉『梁書』五十六巻 『陳書』三十六巻皆魏徴等同撰。 張大素『後魏書』一百巻 又『北斉書』二十巻 『隋書』三十二巻 李百薬『北斉書』五十巻 令狐徳棻『後周書』五十巻 『隋書』八十五巻 『志』三十巻顔師古・孔穎達・于志寧・李淳風・韋安化・李延寿與徳棻・敬播・趙弘智・魏徴等撰。 王元感注『史記』一百三十巻 徐堅注『史記』一百三十巻 李鎮注『史記』一百三十巻開元十七年上、授門下典儀。 又『義林』二十巻 陳伯宣注『史記』一百三十巻貞元中上。 韓琬続『史記』一百三十巻 司馬貞『史記索隠』三十巻開元潤州別駕。 劉伯荘又撰『史記地名』二十巻 『漢書音義』二十巻 張守節『史記正義』三十巻 竇群『史記名臣疏』三十四巻 敬播注『漢書』四十巻 又『漢書音義』十二巻 元懐景『漢書議苑』巻亡。開元右庶子、武陵県男。謚曰文。 姚珽『漢書紹訓』四十巻 沈遵『漢書問答』五巻 李善『漢書辨惑』二十巻 徐堅『晋書』一百一十巻 高希嶠注『晋書』一百三十巻開元二十年上、授清池主簿。 何超『晋書音義』三巻処士。 『武徳貞観両朝史』八十巻長孫无忌・令狐徳棻・顧胤等撰。 呉兢又『斉史』十巻 『梁史』十巻 『陳史』五巻 『周史』十巻 『隋史』二十巻 『唐書』一百巻 又一百三十巻兢・韋述・柳芳・令狐峘・于休烈等撰。 『国史』一百六巻 又一百一十三巻 裴安時『史記纂訓』二十巻 又『元魏書』三十巻字適之、大中江陵少尹。 凡集史五家、六部、一千二百二十二巻。高峻以下不著録三家、四百四十巻。 梁武帝『通史』六百二巻 李延寿『南史』八十巻 又『北史』一百巻 高氏『小史』一百二十巻高峻、初六十巻、其子迥釐益之。峻、元和中人。 劉氏『洞史』二十巻劉権、忠州刺史晏曾孫。 姚康復『統史』三百巻大中太子詹事。 右正史類七十家、九十部、四千八十五巻。失姓名二家、王元感以下不著録二十三家、一千七百九十巻。総七十三家、六十九部。 『紀年』十四巻汲書。 荀悦『漢紀』三十巻 応劭等注荀悅『漢紀』三十巻 崔浩『漢紀音義』三巻 侯瑾『漢皇徳紀』三十巻 張璠『後漢紀』三十巻 袁宏『後漢紀』三十巻 張緬『後漢略』二十七巻 劉艾『漢霊献二帝紀』六巻 袁曄『漢献帝春秋』十巻 楽資『山陽公載記』十巻 習鑿歯『漢晋春秋』五十四巻 『魏武本紀』四巻 孫盛『魏武春秋』二十巻 又『晋陽秋』二十二巻 魏澹『魏紀』十二巻 梁祚『魏書国紀』十巻 環済『呉紀』十巻 陸機『晋帝紀』四巻 干宝『晋紀』二十二巻 劉協注干宝『晋紀』六十巻 劉謙之『晋紀』二十巻 曹嘉之『晋紀』十巻 徐広『晋紀』四十五巻 鄧粲『晋紀』十一巻 又『晋陽秋』三十二巻 檀道鸞『晋春秋』二十巻 蕭景暢『晋史草』三十巻 郭季産『晋続紀』五巻 『晋録』五巻 王智深『宋紀』三十巻 裴子野『宋略』二十巻 鮑衡卿『宋春秋』二十巻 王琰『宋春秋』二十巻 沈約『斉紀』二十巻 呉均『斉春秋』三十巻 謝昊『梁典』三十九巻 劉璠『梁典』三十巻 何之元『梁典』三十巻 蕭韶『梁太清紀』十巻 『皇帝紀』七巻 『梁末代記』一巻 臧厳『栖鳳春秋』五巻 姚最『梁昭後略』十巻 『北斉記』二十巻 王劭『北斉志』十七巻 趙毅『隋大業略記』三巻 杜延業『晋春秋略』二十巻 張大素『隋後略』十巻 柳芳『唐暦』四十巻 『続唐暦』二十二巻韋澳・蒋偕・李荀・張彦遠・崔瑄撰、崔龜従監修。 呉兢『唐春秋』三十巻 韋述『唐春秋』三十巻 陸長源『唐春秋』六十巻 陳嶽『唐統紀』一百巻 焦璐『唐朝年代記』十巻徐州従事、龐勛乱遇害。 李仁実『通暦』七巻 馬『通暦』十巻 王氏『五位図』十巻王起。 『広五運図』巻亡。 苗台符『古今通要』四巻宣・懿時人。 賈欽文『古今年代暦』一巻大中時人。 曹圭『五運録』十二巻 張敦素『建元暦』二巻 劉軻『帝王暦数』一巻字希仁、元和末進士第、洺州刺史。 封演『古今年號録』一巻天宝末進士第。 韋美『嘉号録』一巻中和中進士。 柳璨『正閏位暦』三巻 李匡文『両漢至唐年紀』一巻昭宗時宗正少卿。 右編年類四十一家、四十八部、九百四十七巻。失姓名四家、柳芳以下不著録十九家、三百五十五巻。 常璩『華陽国志』十三巻 又『漢之書』十巻 『蜀李書』九巻 和包『漢趙紀』十四巻 田融『趙石記』二十巻 又『二石記』二十巻 『苻朝雜記』一巻 王度・隨翽『二石偽事』六巻 『二石書』十巻 范亨『燕書』二十巻 王景暉『南燕録』六巻 張詮『南燕書』十巻 高閭『燕志』十巻 段亀龍『涼記』十巻 『西河記』二巻 張諮『涼記』十巻 劉昞『涼書』十巻 又『燉煌実録』二十巻 裴景仁『秦記』十一巻杜恵明注。 『拓抜涼録』十巻 『桓玄偽事』二巻 『鄴洛鼎峙記』十巻 守節先生『天啓紀』十巻 崔鴻『十六国春秋』一百二十巻 蕭方『三十国春秋』三十巻 李『戦国春秋』二十巻 蔡允恭『後梁春秋』十巻 武敏之『三十国春秋』一百巻 右偽史類一十七家、二十七部、五百四十二巻。失姓名三家。 『古文鎖語』四巻 『汲周書』十巻 子貢『越絶書』十六巻 孔晁注『周書』八巻 何承天『春秋前伝』十巻 又『春秋前伝雑語』十巻 楽資『春秋後伝』三十巻 孟儀注『周載』三十巻 趙曄『呉越春秋』十二巻 楊方『呉越春秋削煩』五巻 『呉越記』六巻 劉向『戦国策』三十二巻 高誘注『戦国策』三十二巻 延篤『戦国策論』一巻 陸賈『楚漢春秋』九巻 衛颯『史記要伝』十巻 張瑩『史記正伝』九巻 譙周『古史考』二十五巻 王粲『漢書英雄記』十巻 葛洪『史記鈔』十四巻 又『漢書鈔』三十巻 『後漢書鈔』三十巻 張緬『後漢書略』二十五巻 又『晋書鈔』三十巻 范曄『後漢書纘』十三巻 孔衍『春秋時国語』十巻 又『春秋後国語』十巻 『漢尚書』十巻 『漢春秋』十巻 『後漢尚書』六巻 『後漢春秋』六巻 『後魏尚書』十四巻 『後魏春秋』九巻 王越客『後漢文武釈論』二十巻 袁希之『漢表』十巻 張温『三史要略』三十巻 阮孝緒『正史削繁』十四巻 王延秀『史要』二十八巻 蕭肅『合史』二十巻 又『録』一巻 王蔑『史漢要集』二巻 司馬彪『九州春秋』九巻 『後漢雑事』十巻 魚豢『魏略』五十巻 孫寿『魏陽秋異同』八巻 『魏武本紀年暦』五巻 王隠『刪補蜀記』七巻 張勃『呉録』三十巻 李『左史』六巻 胡沖『呉朝人士品秩状』八巻 又『呉暦』六巻 虞禹『呉士人行状名品』二巻 虞溥『江表伝』五巻 徐衆『三国評』三巻 王濤『三国志序評』三巻 傅暢『晋諸公讃』二十二巻 『晋暦』二巻 荀綽『晋後略』五巻 賈匪之『漢魏晋帝要紀』三巻 郭頒『魏晋代説』十巻 謝綽『宋拾遺録』十巻 孔思尚『宋斉語録』十巻 陰僧仁『梁撮要』三十巻 宋孝王『関東風俗伝』六十三巻 来奧『帝王本紀』十巻 環済『帝王略要』十二巻 劉滔『先聖本紀』十巻 楊曄『華夷帝王紀』三十七巻 張愔等『帝系譜』二巻 韋昭『洞紀』四巻 皇甫謐『帝王代紀』十巻 又『年暦』六巻 何茂林『続帝王代紀』十巻 『帝王代紀』十六巻 『暦紀』十巻 姚恭年『暦帝紀』二十六巻 吉文甫『十五代略』十巻 『代譜』四十八巻周武帝敕撰。 諸葛耽『帝録』十巻 庾和之『歴代記』三十巻 熊襄『十代記』十巻 盧元福『帝王編年録』五十一巻 又『共和以来甲乙紀年』二巻 趙弘礼『王業暦』二巻 周樹『洞暦記』九巻 徐整『三五暦紀』二巻 又『通暦』二巻 『雑暦』五巻 孔衍『国志暦』五巻 『長暦』十四巻 『千年暦』二巻 許氏『千歳暦』三巻 陶弘景『帝王年暦』五巻 羊瑗『分王年暦』五巻 王嘉『拾遺録』三巻 又『拾遺記』十巻蕭綺録。 周祇『崇安記』二巻 王韶之『崇安記』十巻 鮑衡卿『乗輿飛龍記』二巻 蕭大円『淮海乱離志』四巻 李仁実『通暦』七巻 裴矩『隋開業平陳記』十二巻 褚无量『帝王紀録』三巻 皇甫遵『呉越春秋伝』十巻 盧彦卿『後魏紀』三十三巻 劉允済『魯後春秋』二十巻 丘悅『三国典略』三十巻 元行沖『魏典』三十巻 員半千『三国春秋』二十巻 李筌『閫外春秋』十巻 李吉甫『六代略』三十巻 張絢『古五代新記』二巻 許嵩『建康実録』二十巻 『柳氏自備』三十巻柳仲郢。 鄭暐『史儁』十巻 呂才『隋記』二十巻 丘啓期『隋記』十巻開元管城尉。 杜宝『大業雑記』十巻 杜儒童『隋季革命記』五巻武后時人。 『劉氏行年記』二十巻劉仁軌。 崔良佐『三国春秋』巻亡。良佐、深州安平人、日用従子。居共白鹿山、門人謚曰貞文孝父。 裴遵度『王政記』 楊岑『皇王宝運録』並巻亡。岑、憲宗時人。 『功臣録』三十巻 『唐潁稽典』一百三十巻開元中、潁罷臨汾尉、上之。張説奏留史館修史、兼集賢待制。 王彦威『唐典』七十巻 呉兢『唐書備闕記』十巻 『続皇王宝運録』十巻韋昭度・楊渉撰。 韓祐『続古今人表』十巻開元十七年上、授太常寺太祝。 張薦『宰輔伝略』巻亡。 蒋乂『大唐宰輔録』七十巻 又『凌煙功臣』・『秦府十八学士』・『史臣』等伝四十巻 凌璠『唐録政要』十二巻昭宗時江都尉。 南卓『唐朝綱領図』一巻字昭嗣、大中黔南観察使。 薛璫『唐聖運図』二巻 劉肅『大唐新語』十三巻元和中江都主簿。 李肇『国史補』三巻翰林学士、坐薦柏耆、自中書舎人左遷将作少監。 林恩『補国史』十巻僖宗時進士。 『伝載』一巻 『史遺』一巻 温大雅『今上王業記』六巻 李延寿『太宗政典』三十巻 呉兢『太宗勲史』一巻 又『貞観政要』十巻 李康明『皇政録』十巻 鄭処誨『明皇雑録』二巻 鄭棨『開天伝信記』一巻 温畬『天宝乱離西幸記』一巻 宋巨『明皇幸蜀記』一巻 姚汝能『安禄山事迹』三巻華陰尉。 包諝『河洛春秋』二巻安禄山・史思明事。 徐岱『奉天記』一巻徳宗西狩事。 崔光庭『徳宗幸奉天録』一巻 趙元一『奉天録』四巻 張読『建中西狩録』十巻字聖用、僖宗時吏部侍郎。 袁皓『興元聖功録』三巻 谷況『燕南記』三巻張孝忠事。 路隋『平淮西記』一巻 杜信『史略』三十巻 又『閑居録』三十巻 鄭澥『涼国公平蔡録』一巻字蘊士、李愬山南東道掌書記、開州刺史。 薛図存『河南記』一巻李師道事。 李潜用『乙卯記』一巻李訓・鄭注事。 『大和摧兇記』一巻 『野史甘露記』二巻 『開成紀事』二巻 李石『開成承詔録』二巻 李徳裕『次柳氏旧聞』一巻 又『文武両朝献替記』三巻 『会昌伐叛記』一巻 『上党紀叛』一巻劉従諫事。 韓昱『壺関録』三巻 裴廷裕『東観奏記』三巻大順中、詔修宣・懿・僖実録、以日暦注記亡缺、因摭宣宗政事奏記於監修国史杜讓能。廷裕、字膺余、昭宗時翰林学士・左散騎常侍、貶湖南、卒。 令狐澄『貞陵遺事』二巻綯子也。乾符中書舎人。 柳玭『続貞陵遺事』一巻 鄭言『平剡録』一巻裘甫事。言、字垂之、浙西観察使王式従事、咸通翰林学士・戸部侍郎。 張雲『咸通解圍録』一巻字景之、一字瑞卿、起居舎人。 鄭樵『彭門紀乱』三巻龐勛事。 王坤『驚聴録』一巻黄巣事。 郭廷誨『広陵妖乱志』三巻高駢事。 乾寧『会稽録』一巻董昌事。 韓偓『金鑾密記』五巻 王振『汴水滔天録』一巻昭宗時拾遺。 公沙仲穆『大和野史』十巻起大和、盡龍紀。 右雑史類八十八家、一百七部、一千八百二十八巻。失姓名八家、元行沖以下不著録六十八家、八百六十一巻。 郭璞『穆天子伝』六巻 『漢献帝起居注』五巻 李軌『晋泰始起居注』二十巻 又『晋咸寧起居注』二十二巻 『晋太康起居注』二十二巻 『晋永平起居注』八巻 『晋咸和起居注』十八巻 『晋咸康起居注』二十二巻 劉道薈『晋起居注』三百二十巻 『晋建武大興永昌起居注』二十二巻 『晋建元起居注』四巻 『晋永和起居注』二十四巻 『晋升平起居注』十巻 『晋隆和興寧起居注』五巻 『晋太和起居注』六巻 『晋咸安起居注』三巻 『晋寧康起居注』六巻 『晋太元起居注』五十二巻 『晋崇寧起居注』十巻 『晋元興起居注』九巻 『晋義熙起居注』三十四巻 『晋元熙起居注』二巻 何始真『晋起居鈔』五十一巻 『晋起居注鈔』二十四巻 『宋永初起居注』六巻 『宋景平起居注』三巻 『宋元嘉起居注』七十一巻 『宋孝建起居注』十七巻 『宋大明起居注』十五巻 『後魏起居注』二百七十六巻 『斉永明起居注』二十五巻 『梁大同七年起居注』十巻 『陳起居注』四十一巻 『隋開皇元年起居注』六巻 王逡之『三代起居注鈔』十五巻 『流別起居注』四十七巻 温大雅『大唐創業起居注』三巻 『開元起居注』三千六百八十二巻失撰人名。 姚『修時政記』四十巻 凡実録二十八部、三百四十五巻。劉知幾以下不著録四百五十七巻。 周興嗣『梁皇帝実録』二巻 謝昊『梁皇帝実録』五巻 『梁太清実録』十巻 『高祖実録』二十巻敬播撰、房玄齢監修、許敬宗刪改。 『今上実録』二十巻敬播・顧胤撰、房玄齢監修。 長孫无忌『貞観実録』四十巻 許敬宗『皇帝実録』三十巻 『高宗後修実録』三十巻初、令狐徳棻撰、止乾封、劉知幾・呉兢続成。 韋述『高宗実録』三十巻 武后『高宗実録』一百巻 『則天皇后実録』二十巻魏元忠・武三思・祝欽明・徐彦伯・柳沖・韋承慶・崔融・岑羲・徐堅撰、劉知幾・呉兢刪正。 宗秦客『聖母神皇実録』十八巻 呉兢『中宗実録』二十巻 劉知幾『太上皇実録』十巻 呉兢『睿宗実録』五巻 張説『今上実録』二十巻説與唐潁撰、次玄宗開元初事。 『開元実録』四十七巻失撰人名。 『玄宗実録』一百巻令狐峘撰、元載監修。 『肅宗実録』三十巻元載監修。 令狐峘『代宗実録』四十巻 沈既済『建中実録』十巻 『徳宗実録』五十巻蒋乂・樊紳・林宝・韋処厚・獨孤郁撰、裴監修。 『順宗実録』五巻韓愈・沈伝師、宇文籍撰、李吉甫監修。 『憲宗実録』四十巻沈伝師・鄭澣・宇文籍・蒋係・李漢・陳夷行・蘇景胤撰、杜元穎・韋処厚・路隋監修。景胤、弁子也、中書舎人。 『穆宗実録』二十巻蘇景胤・王彦威・楊漢公・蘇滌・裴休撰、路隋監修。滌、字玄獻、冕子也、荊南節度使・吏部尚書。 『敬宗実録』十巻陳商・鄭亞撰、李讓夷監修。商、字述聖、礼部侍郎・秘書監。 文宗実録四十巻盧耽・蒋偕・王渢・盧告・牛叢撰、魏監修。耽、字子厳、一字子重、歴西川節度使・同中書門下平章事。渢、字中徳、歴東都留守。告、字子有、弘宣子也、歴吏部侍郎。 『武宗実録』三十巻韋保衡監修。 凡詔令一家、一十一部、三百五巻。失姓名十家、温彦博以下不著録十一家、二百二十二巻。 『晋雑詔書』一百巻 又二十八巻 又六十六巻 『晋詔書黄素制』五巻 『晋定品雑制』一巻 『晋太元副詔』二十一巻 『晋崇安元興大亨副詔』八巻 『晋義熙詔』二十二巻 『宋永初詔』六巻 『宋元嘉詔』二十一巻 『宋幹詔集区別』二十七巻 温彦博『古今詔集』三十巻 李義府『古今詔集』一百巻 薛克構『聖朝詔集』三十巻 『唐徳音録』三十巻 『太平内制』五巻 『明皇制詔録』一巻 『元和制集』十巻 王起『写宣』十巻 馬文敏『王言会最』五巻 『唐旧制編録』六巻費氏集。 『擬状注制』十巻 右起居注類六家、三十八部、一千二百七十二巻。失姓名二十六家、開元起居注以下不著録三家、三千七百二十五巻。総七家、七十七部。 『秦漢以来旧事』八巻 『漢武帝故事』二巻 韋氏『三輔旧事』一巻 葛洪『西京雑記』二巻 『建武故事』三巻 『永平故事』二巻 応劭『漢朝駁』三十巻 『漢諸王奏事』十巻 『漢魏呉蜀旧事』八巻 『魏名臣奏事』三十巻 『魏台訪議』三巻 『魏廷尉決事』十巻 『南台奏事』九巻 『晋太始太康故事』八巻 孔愉『晋建武咸和咸康故事』四巻 『晋建武以来故事』三巻 『晋氏故事』三巻 『晋朝雑事』二巻 『晋故事』四十三巻 『晋諸雑故事』二十二巻 『晋雑議』十巻 『晋要事』三巻 『晋宋旧事』一百三十巻 車灌『晋修復山陵故事』五巻 盧綝『晋八王故事』十二巻 又『晋四王起事』四巻 張敞『晋東宮旧事』十巻 范汪『尚書大事』二十一巻 『華林故事名』一巻 劉道薈『先朝故事』二十巻 『交州雑故事』九巻 『中興伐逆事』二巻 温子昇『魏永安故事』三巻 蕭大円『梁魏旧事』三十巻 僧亡名『天正旧事』三巻 応詹『江南故事』三巻 『大司馬陶公故事』三巻 『郗太尉為尚書令故事』三巻 王愆期『救襄陽上都府事』一巻 『春坊旧事』三巻 武后『述聖紀』一巻 杜正倫『春坊要録』四巻 王方慶『南宮故事』十二巻 裴矩『鄴都故事』十巻 馬『唐年小録』八巻 張斉賢『孝和中興故事』三巻 盧若虚『南宮故事』三十巻 令狐徳棻『凌煙閣功臣故事』四巻 敬播『文貞公伝事』四巻 劉禕之『文貞公故事』六巻 張大業『魏文貞故事』八巻 王方慶『文貞公事録』一巻 李仁実『衛公平突厥故事』二巻 謝偃『英公故事』四巻 劉禕之『英国貞武公故事』四巻 陳諫等『彭城公故事』一巻劉晏。 『張九齢事迹』一巻 『李渤事迹』一巻 『杜悰事迹』一巻 『呉湘事迹』一巻 丘據『相国涼公録』一巻李抱玉事。據、諫議大夫。 右故事類十七家、四十三部、四百九十六巻。失姓名二十五家、裴矩以下不著録十六家、九十巻。 王隆『漢官解詁』三巻胡広注。 応劭『漢官』五巻 『漢官儀』十巻 蔡質『漢官典儀』一巻 丁孚『漢官儀式選用』一巻 荀攸等『魏官儀』一巻 傅暢『晋公卿礼秩故事』九巻 『百官名』十四巻 干宝『司徒儀注』五巻 陸機『晋恵帝百官名』三巻 『晋官属名』四巻 『晋過江人士目』一巻 衛禹『晋永嘉流士』二巻 『登城三戦簿』三巻 范曄『百官階次』一巻 荀欽明『宋百官階次』三巻 『宋百官春秋』六巻 『魏官品令』一巻 王珪之『斉職官儀』五十巻 徐勉『梁選簿』三巻 沈約『梁新定官品』十六巻 『梁百官人名』十五巻 『陳将軍簿』一巻 『太建十一年百官簿状』二巻 郎楚之『隋官序録』十二巻 王道秀『百官春秋』十三巻 郭演『職令古今百官注』十巻 陶彦藻『職官要録』三十六巻 『職員旧事』三十巻 王方慶『宮卿旧事』一巻 『六典』三十巻開元十年、起居舎人陸堅被詔集賢院修「六典」、玄宗手写六條、曰理典・教典・礼典・政典・刑典・事典。張説知院、委徐堅、経歳無規制、乃命毋煚・余欽・咸廙業・孫季良・韋述参撰。始以令式象周礼六官為制。蕭嵩知院、加劉鄭蘭・蕭晟・盧若虚。張九齢知院、加陸善経。李林甫代九齢、加苑咸。二十六年書成。 王方慶又『撰尚書考功簿』五巻 又『尚書考功状績簿』十巻 『尚書科配簿』五巻 『五省遷除』二十巻 裴行倹『選譜』十巻 『唐循資格』一巻天宝中定。 沈既済『選挙志』十巻 梁載言『具員故事』十巻 又具員事迹』十巻 杜英師『職該』二巻 任戩『官品纂要』十巻 温大雅『大丞相唐王官属記』二巻 杜易簡『御史台雑注』五巻 韓琬『御史台記』十二巻 韋述『御史台記』十巻 又『集賢注記』三巻 李構『御史台故事』三巻 劉貺『天官旧事』一巻 柳芳『大唐宰相表』三巻 馬宇『鳳池録』五十巻 賀蘭正元『輔佐記』十巻 又『挙選衡鑑』三巻昭義判官、貞元十三年上。 韋琯『国相事状』七巻憲宗時人。 張之緒『文昌損益』二巻徳宗時人。 李肇『翰林志』一巻 李吉甫『元和国計簿』十巻 又『元和百司挙要』一巻 王涯『唐循資格』五巻 韋処厚『大和国計』二十巻 王彦威『占額図』一巻 孫結『大唐国照図』一巻文宗時人。 『大唐国要図』五巻左僕射賈耽纂、監察御史褚璆重修。 『翰林内誌』一巻 楊鉅『翰林学士院旧規』一巻字文碩、收子也。昭宗時翰林学士・吏部侍郎。 右職官類十九家、二十六部、二百六十二巻。失姓名十家、六典以下不著録二十九家、二百八十巻。 →巻五十八 志第四十八つづき
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/120.html
資治通鑑巻第十七 漢紀九 世宗孝武皇帝上之上 建元元年(辛丑、前一四〇) 1冬,十月,詔舉賢良方正直言極諫之士,上親策問以古今治道,對者百餘人。廣川董仲舒對曰:「道者,所繇適於治之路也,仁、義、禮、樂,皆其具也。故聖王已沒,而子孫長久,安寧數百歳,此皆禮樂教化之功也。夫人君莫不欲安存,而政亂國危者甚衆;所任者非其人而所繇者非其道,是以政日以僕滅也。夫周道衰於幽、厲,非道亡也,幽、厲不繇也。至於宣王,思昔先王之德,興滯補敝,明文、武之功業,周道粲然復興,此夙夜不懈行善之所致也。 孔子曰:『人能弘道,非道弘人。』故治亂廢興在於己,非天降命,不可得反;其所操持悖謬,失其統也。爲人君者,正心以正朝廷,正朝廷以正百官,正百官以正萬民,正萬民以正四方。四方正,遠近莫敢不壹於正,而亡有邪氣姦其間者,是以陰陽調而風雨時,羣生和而萬民殖,諸福之物,可致之祥,莫不畢至,而王道終矣!孔子曰:『鳳鳥不至,河不出圖,吾已矣夫!』自悲可致此物,而身卑賤不得致也。今陛下貴爲天子,富有四海,居得致之位,操可致之勢,又有能致之資;行高而恩厚,知明而意美,愛民而好士,可謂誼主矣。然而天地未應而美祥莫至者,何也?凡以教化不立而萬民不正也。夫萬民之從利也,如水之走下,不以教化堤防之,不能止也。古之王者明於此,故南面而治天下,莫不以教化爲大務。立太學以教於國,設癢序以化於邑,漸民以仁,摩民以誼,節民以禮,故其刑罰甚輕而禁不犯者,教化行而習俗美也。聖王之繼亂世也,掃除其跡而悉去之,復修教化而崇起之;教化已明,習俗已成,子孫循之,行五六百歳尚示敗也。秦滅先聖之道,爲苟且之治,故立十四年而亡,其遺毒餘烈至今未滅,習俗薄惡,人民囂頑,抵冒殊扞,熟爛如此之甚者也。竊譬之:琴瑟不調,甚者必解而更張之,乃可鼓也;爲政而不行,甚者必變而更化之,乃可理也。故漢得天下以來,常欲治而至今不可善治者,失之於當更化而不更化也。 臣聞聖王之治天下也,少則習之學,長則材諸位,爵祿以養其德,刑罰以威其惡,故民曉於禮誼而恥犯其上。武王行大誼,平殘賊,周公作禮樂以文之;至於成、康之隆,囹圄空虚四十餘年。此亦教化之漸而仁誼之流,非獨傷肌膚之效也。至秦則不然,師申、商之法,行韓非之説,憎帝王之道,以貪狼爲俗,誅名而不察實,爲善者不必免而犯惡者未必刑也。是以百官皆飾虚辭而不顧實,外有事君之禮,内有背上之心,造偽飾詐,趨利無恥,是以刑者甚衆,死者相望,而姦不息,俗化使然也。今陛下並有天下,莫不率服,而功不加於百姓者,殆王心未加焉。曾子曰:『尊其所聞,則高明矣;行其所知,則光大矣。高明光大,不在於它,在乎加之意而已。』願陛下因用所聞,設誠於内而致行之,則三王何異哉! 夫不素養士而欲求賢,譬猶不琢玉而求文采也。故養士之大者,莫大虖太學;太學者,賢士之所關也,教化之本原也。今以一郡、一國之衆對,亡應書者,是王道往往而絶也。臣願陛下興太學,置明師,以養天下之士,數考問以盡其材,則英俊宜可得矣。今之郡守、縣令,民之師帥,所使承流而宣化也;故師帥不賢,則主德不宣,恩澤不流。今吏既亡教訓於下,或不承用王上之法,暴虐百姓,與姦爲市,貧窮孤弱,冤苦失職,甚不稱陛下之意;是以陰陽錯繆,氛氣充塞,羣生寡遂,黎民未濟,皆長吏不明使至於此也! 夫長吏多出於郎中、中郎、吏二千石子弟,選郎吏又以富訾,未必賢也。且古所謂功者,以任官稱職爲差,非謂積日累久也;故小材雖累日,不離於小官,賢材雖未久,不害爲輔佐,是以有司竭力盡知,務治其業而以赴功。今則不然,累日以取貴,積久以致官,是以廉恥貿亂,賢不肖渾殽,未得其眞。臣愚以爲使諸列侯、郡守、二千石各擇其吏民之賢者,歳貢各二人以給宿衞,且以觀大臣之能;所貢賢者有賞,所貢不肖者有罰。夫如是,諸吏二千石皆盡心於求賢,天下之士可得而官使也。遍得天下之賢人,則三王之盛易爲,而堯、舜之名可及也。毋以日月爲功,實試賢能爲上,量材而授官,録德而定位,則廉恥殊路,賢不肖異處矣! 臣聞衆少成多,積小致巨,故聖人莫不以暗致明,以微致顯;是以堯發於諸侯,舜興虖深山,非一日而顯也,蓋有漸以致之矣。言出於己,不可塞也;行發於身,不可掩也;言行,治之大者,君子之所以動天地也。故盡小者大,愼微者著;積善在身,猶長日加益而人不知也;積惡在身,猶火銷膏而人不見也;此唐、虞之所以得令名而桀、紂之可爲悼懼者也。 夫樂而不亂,復而不厭者,謂之道。道者,萬世亡敝;敝者,道之失也。先王之道,必有偏而不起之處,故政有眊而不行,舉其偏者以補其敝而已矣。三王之道,所祖不同,非其相反,將以救溢扶衰,所遭之變然也。故孔子曰:『無爲而治者其舜乎!』改正朔,易服色,以順天命而已;其餘盡循堯道,何更爲哉!故王者有改制之名,亡變道之實。然夏上忠,殷上敬,周上文者,所繼之救當用此也。孔子曰:『殷因於夏禮,所損益可知也;周因於殷禮,所損益可知也;其或繼周者,雖百世可知也。』此言百王之用,以此三者矣。夏因於虞,而獨不言所損益者,其道一而所上同也。道之大原出於天,天不變,道亦不變,是以禹繼舜,舜繼堯,三聖相受而守一道,亡救敝之政也,故不言其所損益也。繇是觀之,繼治世者其道同,繼亂世者其道變。 今漢繼大亂之後,若宜少損周之文,致用夏之忠者。夫古之天下,亦今之天下,共是天下,以古准今,壹何不相逮之遠也!安所繆盭而陵夷若是?意者有所失於古之道與,有所詭於天之理與?夫天亦有所分予:予之齒者去其角,傅其翼者兩其足,是所受大者不得取小也。古之所予祿者,不食於力,不動於末,是亦受大者不得取小,與天同意者也。夫已受大,又取小,天不能足,而況人虖!此民之所以囂囂苦不足也。身寵而載高位,家温而食厚祿,因乘富貴之資力以與民爭利於下,民安能如之哉!民日削月朘,浸以大窮。富者奢侈羨溢,貧者窮急愁苦;民不樂生,安能避罪!此刑罰之所以蕃而姦邪不可勝者也。天子大夫者,下民之所視效,遠方之所四面而内望也。近者視而放之,遠者望而效之,豈可以居賢人之位而爲庶人行哉!夫皇皇求財利,常恐乏匱者,庶人之意也;皇皇求仁義,常恐不能化民者,大夫之意也。易曰:『負且乘,致寇至。』乘車者,君子之位也;負擔者,小人之事也。此言居君子之位而爲庶人之行者,患禍必至也。若居君子之位,當君子之行,則捨公儀休之相魯,無可爲者矣。春秋大一統者,天地之常經,古今之通誼也。今師異道,人異論,百家殊方,指意不同,是以上無以持一統,法制數變,下不知所守。臣愚以爲諸不在六藝之科、孔子之術者,皆絶其道,勿使並進,邪辟之説滅息,然後統紀可一而法度可明,民知所從矣!」 天子善其對,以仲舒爲江都相。會稽莊助亦以賢良對策,天子擢爲中大夫。丞相衞綰奏:「所舉賢良,或治申、韓、蘇、張之言亂國政者,請皆罷。」奏可。董仲舒少治春秋,孝景時爲博士,進退容止,非禮不行,學者皆師尊之。及爲江都相,事易王。易王,帝兄,素驕,好勇。仲舒以禮匡正,王敬重焉。 1.冬、十月、賢良方正直言極諫の士を推薦するようにした。お上が自ら古今の治道の策を問うたところ、応えるも者百余人。広川の董仲舒が対えて曰く「道にしたがっておれば、(それは正しい)治政へと導く路です。仁義礼楽は、みなその手段です。故に聖王はすでに亡くなっても、 2春,二月,赦。 2. 3行三銖錢。 3. 4夏,六月,丞相衞綰免。丙寅,以魏其侯竇嬰爲丞相,武安侯田蚡爲太尉。上雅向儒術,嬰、蚡倶好儒,推轂代趙綰爲御史大夫,蘭陵王臧爲郎中令。綰請立明堂以朝諸侯,且薦其師申公。秋,天子使使束帛加璧、安車駟馬以迎申公。既至,見天子。天子問治亂之事,申公年八十餘。對曰:「爲治者不至多言,顧力行何如耳。」是時,天子方好文詞,見申公對,默然,然已招致,則以爲太中大夫,舎魯邸,議明堂、巡狩、改暦、服色事。 4. 5是歳,内史寧成抵罪髡鉗。 5. 二年(壬寅、前一三九) 1冬,十月,淮南王安來朝。上以安屬爲諸父而材高,甚尊重之,毎宴見談語,昏暮然後罷。 安雅善武安侯田蚡,其入朝,武安侯迎之霸上,與語曰:「上無太子,王親高皇帝孫,行仁義,天下莫不聞。宮車一日晏駕,非王尚誰立者!」安大喜,厚遺蚡金錢財物。 1. 2太皇竇太后好黄、老言,不悅儒術。趙綰請毋奏事東宮。竇太后大怒曰:「此欲復爲新垣平邪!」陰求得趙綰、王臧姦利事,以讓上。上因廢明堂事,諸所興爲皆廢。下綰、臧吏,皆自殺。丞相嬰、太尉蚡免,申公亦以疾免歸。 初,景帝以太子太傅石奮及四子皆二千石,乃集其門,號奮爲「萬石君」。萬石君無文學,而恭謹無與比。子孫爲小吏,來歸謁,萬石君必朝服見之,不名。子孫有過失,不責讓,爲便坐,對案不食;然後諸子相責,因長老肉袒謝罪,改之,乃許。子孫勝冠者在側,雖燕居必冠。其執喪,哀戚甚悼。子孫遵教,皆以孝謹聞乎郡國。及趙綰、王臧以文學獲罪,竇太后以爲儒者文多質少,今萬石君家不言而躬行,乃以其長子建爲郎中令,少子慶爲内史。建在上側,事有可言,屏人恣言極切,至廷見,如不能言者;上以是親之。慶嘗爲太僕,御出,上問車中幾馬,慶以策數馬畢,舉手曰:「六馬。」慶於諸子中最爲簡易矣。 竇嬰、田蚡既免,以侯家居。蚡雖不任職,以王太后故親幸,數言事多效。士吏趨勢利者,皆去嬰而歸蚡,蚡日益橫。 2. 3春,二月,丙戌朔,日有食之。 3. 4三月,乙未,以太常柏至侯許昌爲丞相。 4. 5初,堂邑侯陳午尚帝姑館陶公主嫖,帝之爲太子,公主有力焉,以其女爲太子妃,及即位,妃爲皇后。竇太主恃功,求請無厭,上患之。皇后驕妒,擅寵而無子,與醫錢凡九千萬,欲以求子,然卒無之。後寵浸衰。皇太后謂上曰:「汝新即位,大臣未服,先爲明堂,太皇太后已怒。今又忤長主,必重得罪。婦人性易悅耳,宜深愼之!」上乃於長主、皇后復稍加恩禮。 上祓霸上,還,過上姊平陽公主,悅謳者衞子夫。子夫母衞媼,平陽公主家僮也。主因奉送子夫入宮,恩寵日隆。陳皇后聞之,恚,幾死者數矣。上愈怒。 子夫同母弟衞靑,其父鄭季,本平陽縣吏,給事侯家,與衞媼私通而生靑,冒姓衞氏。靑長,爲侯家騎奴。大長公主執囚靑,欲殺之。其友騎郎公孫敖與壯士簒取之。上聞,乃召靑爲建章監、侍中,賞賜數日間累千金。既而以子夫爲夫人,靑爲太中大夫。 5. 6夏,四月,有星如日,夜出。 6. 7初置茂陵邑。 7. 8時大臣議者多冤晁錯之策,務摧抑諸侯王,數奏暴其過惡,吹毛求疵,笞服其臣,使證其君。諸侯王莫不悲怨。 8. 三年(癸卯、前一三八) 1冬,十月,代王登、長沙王發、中山王勝、濟川王明來朝。上置酒,勝聞樂聲而泣。上問其故,對曰:「悲者不可爲累欷,思者不可爲歎息。今臣心結日久,毎聞幼眇之聲,不知涕泣之橫集也。臣得蒙肺附爲東藩,屬又稱兄。今羣臣非有葭莩之親、鴻毛之重,羣居黨議,朋友相爲,使夫宗室擯卻,骨肉冰釋,臣竊傷之!」具以吏所侵聞。於是上乃厚諸侯之禮,省有司所奏諸侯事,加親親之恩焉。 1. 2河水溢于平原。 2. 3大饑,人相食。 3. 4秋,七月,有星孛於西北。 4. 5濟川王明坐殺中傅,廢遷房陵。 5. 6七國之敗也,呉王子駒亡走閩越,怨東甌殺其父,常勸閩越撃東甌。閩粤從之,發兵圍東甌,東甌使人告急天子。天子問田蚡,蚡對曰:「越人相攻撃,固其常;又數反覆,自秦時棄不屬,不足以煩中國往救也。」莊助曰:「特患力不能救,德不能覆。誠能,何故棄之!且秦舉咸陽而棄之,何但越也!今小國以窮困來告急,天子不救,尚安所愬,又何以子萬國乎!」上曰:「太尉不足與計。吾新即位,不欲出虎符發兵郡國。」乃遣助以節發兵會稽。會稽守欲距法不爲發,助乃斬一司馬,諭意指,遂發兵浮海救東甌。未至,閩越引兵罷。東甌請舉國内徙,乃悉舉其衆來,處於江、淮之間。 6. 7九月,丙子晦,日有食之。 7. 8上自初即位,招選天下文學材智之士,待以不次之位。四方士多上書言得失,自眩鬻者以千數。上簡拔其俊異者寵用之。莊助最先進,後又得呉人硃買臣、趙人吾丘壽王、蜀人司馬相如、平原東方朔、呉要枚皋、濟南終軍等,並在左右,毎令與大臣辨論,中外相應以義理之文,大臣數屈焉。然相如特以辭賦得幸;朔、皋不根持論,好詼諧,上以俳優畜之,雖數賞賜,終不任以事也。朔亦觀上顏色,時時直諫,有所補益。 是歳,上始爲微行,北至池陽,西至黄山,南獵長楊,東遊宜春,與左右能騎射者期諸殿門。常以夜出,自稱平陽侯;旦明,入南山下,射鹿、豕、狐、兔,馳騖禾稼之地,民皆號呼罵詈。鄂、杜令欲執之,示以乘輿物,乃得免。又嘗夜至伯谷,投逆旅宿,就逆旅主人求漿,主人翁曰:「無漿,正有溺耳!」且疑上爲姦盜,聚少年欲攻之。主人嫗睹上状貌而異之,止其翁曰:「客非常人也,且又有備,不可圖也。」翁不聽,嫗飲翁以酒,醉而縛之。少年皆散走,嫗乃殺雞爲食以謝客。明日,上歸,召嫗,賜金千斤,拜其夫爲羽林郎。後乃私置更衣,從宣曲以南十二所,夜投宿長楊、五柞等諸宮。 上以道遠勞苦,又爲百姓所患,乃使太中大夫吾丘壽王舉籍阿城以南,盩厔以東,宜春以西,提封頃畝,及其賈直,欲除以爲上林苑,屬之南山。又詔中尉、左右内史表屬縣草田,欲以償鄠、杜之民。壽王奏事,上大説稱善。時東方朔在傍,進諫曰:「夫南山,天下之阻也。漢興,去三河之地,止霸、滻以西,都涇、渭之南,此所謂天下陸海之地,秦之所以虜西戎、兼山東者也。其山出玉石、金、銀、銅、鐵、良材,百工所取給,萬民所卬足也。又有粳、稻、梨、栗、桑、麻、竹箭之饒,土宜姜、芋,水多蛙、魚,貧者得以人給家足,無饑寒之憂;故酆、鎬之間,號爲土膏,其賈畝一金。今規以爲苑,絶陂池水澤之利而取民膏腴之地,上乏國家之用,下奪農桑之業,是其不可一也。盛荊、棘之林,廣狐、菟之苑,大虎、狼之虚,壞人塚墓,發人室廬,令幼弱懷土而思,耆老泣涕而悲,是其不可二也。斥而營之,垣而囿之,騎馳東西,車騖南北,有深溝大渠。夫一日之樂,不足以危無堤之輿,是其不可三也。夫殷作九市之宮而諸侯畔,靈王起章華之臺而楚民散,秦興阿房之殿而天下亂。糞土愚臣,逆盛意,罪當萬死!」上乃拜朔爲太中大夫、給事中,賜黄金百斤。然遂起上林苑,如壽王所奏。 上又好自撃熊、豕,馳逐野獸。司馬相如上疏諫曰:「臣聞物有同類而殊能者,故力稱烏獲,捷言慶忌,勇期賁、育,臣之愚,竊以爲人誠有之,獸亦宜然。今陛下好陵阻險,射猛獸,卒然遇逸材之獸,駭不存之地,犯屬車之清塵,輿不及還轅,人不暇施巧,雖有烏獲、逄蒙之技,不得用,枯木朽株,盡爲難矣。是胡、越起於轂下而羌、夷接軫也,豈不殆哉!雖萬全而無患,然本非天子之所宜近也。宜夫清道而後行,中路而馳,猶時有銜橛之變,況乎渉豐草,騁丘虚,前有利獸之樂,而内無存變之意,其爲害也不難矣。夫輕萬乘之重不以爲安,樂出萬有一危之塗以爲娯,臣竊爲陛下不取。蓋明者遠見於未萌,而知者避危於無形,禍固多藏於隱微而發於人之所忽者也。故鄙諺曰:『家累千金,坐不垂堂。』此言雖小,可以諭大。」上善之。 8. 四年(甲辰、前一三七) 1夏,有風赤如血。 1. 2六月,旱。 2. 3秋,九月,有星孛于東北。 3. 4是歳,南越王佗死,其孫文王胡立。 4. 五年(乙巳、前一三六) 1春,罷三銖錢,行半兩錢。 1. 2置五經博士。 2. 3夏,五月,大蝗。 3. 4秋,八月,廣川惠王越、清河哀王乘皆薨,無後,國除。 4. 六年(丙午、前一三五) 1春,二月,乙未,遼東高廟災。 1. 2夏,四月,壬子,高園便殿火。上素服五日。 2. 3五月,丁亥,太皇太后崩。 3. 4六月,癸巳,丞相昌免;武安侯田蚡爲丞相。蚡驕侈,治宅甲諸第,田園極膏腴;市買郡縣物,相屬於道;多受四方賂遺;其家金玉、婦女,狗馬、聲樂、玩好,不可勝數。毎入奏事,坐語移日,所言皆聽。薦人或起家至二千石,權移主上。上乃曰:「君除吏已盡未?吾亦欲除吏。」嘗請考工地益宅,上怒曰:「君何不遂取武庫!」是後乃稍退。 4. 5秋,八月,有星孛于東方,長竟天。 5. 6閩越王郢興兵撃南越邊邑,南越王守天子約,不敢擅興兵,使人上書告天子。於是天子多南越義,大爲發兵,遣大行王恢出豫章,大農令韓安國出會稽,撃閩越。 淮南王安上書諫曰:「陛下臨天下,布德施惠,天下攝然,人安其生,自以沒身不見兵革。今聞有司舉兵將以誅越,臣安竊爲陛下重之。 越,方外之地,剪髮文身之民也,不可以冠帶之國法度理也。自三代之盛,胡、越不與受正朔,非強勿強服,威弗能制也,以爲不居之地,不牧之民,不足以煩中國也。自漢初定已來七十二年,越人相攻撃者不可勝數,然天子未嘗舉兵而入其地也。臣聞越非有城郭邑里也,處谿谷之間,篁竹之中,習於水鬥,便於用舟,地深昧而多水險,中國之人不知其勢阻而入其地,雖百不當其一。得其地,不可郡縣也;攻之,不可暴取也。以地圖察其山川要塞,相去不過寸數,而間獨數百千里,險阻、林叢弗能盡著;視之若易,行之甚難。天下賴宗廟之靈,方内大寧,戴白之老不見兵革,民得夫婦相守,父子相保,陛下之德也。越人名爲藩臣,貢酎之奉不輸大内,一卒之用不給上事;自相攻撃,而陛下發兵救之,是反以中國而勞蠻夷也。且越人愚戇輕薄,負約反覆,其不用天子之法度,非一日之積也。壹不奉詔,舉兵誅之,臣恐後兵革無時得息也。 間者,數年歳比不登,民待賣爵、贅子以接衣食。賴陛下德澤振救之,得毋轉死溝壑。四年不登,五年復蝗,民生未復。今發兵行數千里,資衣糧,入越地,輿轎而隃領,拖舟而入水,行數百千里,夾以深林叢竹,水道上下撃石,林中多蝮蛇、猛獸,夏月暑時,歐洩霍亂之病相隨屬也;曾未施兵接刃,死傷者必衆矣。前時南海王反,陛下先臣使將軍間忌將兵撃之,以其軍降,處之上淦。後復反,會天暑多雨,樓船卒水居撃棹,未戰而疾死者過半;親老涕泣,孤子啼號,破家散業,迎屍千里之外,裹骸骨而歸。悲哀之氣,數年不息,長老至今以爲記,曾未入其地而禍已至此矣。陛下德配天地,明象日月,恩至禽獸,澤及草木,一人有饑寒,不終其天年而死者,爲之心妻愴於心。今方内無狗吠之警,而使陛下甲卒死亡,暴露中原,霑漬山谷,邊境之民爲之早閉晏開,朝不及夕,臣安竊爲陛下重之。 不習南方地形者,多以越爲人衆兵強,能難邊城。淮南全國之時,多爲邊吏,臣竊聞之,與中國異。限以高山,人跡絶,車道不通,天地所以隔外内也。其入中國,必下領水,領水之山峭峻,漂石破舟,不可以大船載食糧下也。越人欲爲變,必先田餘干界中,積食糧,乃入,伐材治船。邊城守候誠謹,越人有入伐材者,輒收捕,焚其積聚,雖百越,奈邊城何!且越人綿力薄材,不能陸戰,又無車騎、弓弩之用,然而不可入者,以保地險,而中國之人不耐其水土也。臣聞越甲卒不下數十萬,所以入之,五倍乃足,輓車奉餉者不在其中。南方暑濕,近夏癉熱,暴露水居,蝮蛇蜇生,疾疢多作,兵未血刃而病死者什二三,雖舉越國而虜之,不足以償所亡。 臣聞道路言:閩越王弟甲弑而殺之,甲以誅死,其民未有所屬。陛下若欲來,内處之中國,使重臣臨存,施德垂賞以招致之,此必攜幼扶老以歸聖德。若陛下無所用之,則繼其絶世,存其亡國,建其王侯,以爲畜越,此必委質爲藩臣,世共貢職。陛下以方寸之印,丈二之組,填撫方外,不勞一卒,不頓一戟,而威德並行。今以兵入其地,此必震恐,以有司爲欲屠滅之也,必雉兔逃,入山林險阻。背而去之,則復相羣聚;留而守之,歴歳經年,則士卒罷倦,食糧乏絶,民苦兵事,盜賊必起。臣聞長老言:秦之時,嘗使尉屠睢撃越,又使監祿鑿渠通道,越人逃入深山林叢,不可得攻;留軍屯守空地,曠日引久,士卒勞倦;越出撃之,秦兵大破,乃發縕戍以備之。當此之時,外内騷動,皆不聊生,亡逃相從,羣爲盜賊,於是山東之難始興。兵者凶事,一方有急,四面皆聳。臣恐變故之生,姦邪之作,由此始也。 臣聞天子之兵有征而無戰,言莫敢校也。如使越人蒙徼幸以逆執事之顏行,廝輿之卒有一不備而歸者,雖得越王之首,臣猶竊爲大漢羞之。陛下以四海爲境,生民之屬,皆爲臣妾。垂德惠以覆露之,使安生樂業,則澤被萬世,傳之子孫,施之無窮。天下之安,猶泰山而四維之也,夷狄之地,何足以爲一日之閒,而煩汗馬之勞乎!詩云:『王猶允塞,徐方既來。』言王道甚大而遠方懷之也。臣安竊恐將吏之以十萬之師爲一使之任也。」 是時,漢兵遂出,未踰領,閩越王郢發兵距險。其弟餘善乃與相、宗族謀曰:「王以擅發兵撃南越不請,故天子兵來誅。漢兵衆強,即幸勝之,兵來益多,終滅國而止。今殺王以謝天子,天子聽,罷兵,固國完;不聽,乃力戰;不勝,即亡入海。」皆曰:「善!」即鏦殺王,使使奉其頭致大行。大行曰:「所爲來者,誅王。今王頭至,謝罪;不戰而殞,利莫大焉。」乃以便宜案兵,告大農軍,而使使奉王頭馳報天子。詔罷兩將兵,曰:「郢等首惡,獨無諸孫繇君丑不與謀焉。」乃使中郎將立丑爲越繇王,奉閩越先祭祀。餘善已殺郢,威地於國,國民多屬,竊自立爲王,繇王不能制。上聞之,爲餘善不足復興師,曰:「餘善數與郢謀亂,而後首誅郢,師得不勞。」因立餘善爲東越王,與繇王並處。 上使莊助諭意南粤。南粤王胡頓首曰:「天子乃爲臣興兵討閩越,死無以報德!」遣太子嬰齊入宿衞,謂助曰:「國新被寇,使者行矣,胡方日夜裝,入見天子。」助還,過淮南,上又使助諭淮南王安以討越事,嘉答其意,安謝不及。助既去南越,南越大臣皆諫其王曰:「漢興兵誅郢,亦行以驚動南越。且先王昔言:『事天子期無失禮。』要之,不可以説好語入見,則不得復歸,亡國之勢也。」於是胡稱病,竟不入見。 6. 7是歳,韓安國爲御史大夫。 7. 8東海太守濮陽汲黯爲主爵都尉。始,黯爲謁者,以嚴見憚。東越相攻,上使黯往視之;不至,至呉而還,報曰:「越人相攻,固其俗然,不足以辱天子之使。」河内失火,延燒千餘家,上使黯往視之;還,報曰:「家人失火,屋比延燒,不足憂也。臣過河南,河南貧人傷水旱萬餘家,或父子相食,臣謹以便宜,持節發河南倉粟以振貧民。臣請歸節,伏矯制之罪。」上賢而釋之。其在東海,治官理民,好清靜,擇丞、史任之,責大指而已,不苛小。黯多病,臥閨閣内不出。歳餘,東海大治,稱之。上聞,召爲主爵都尉,列於九卿。其治務在無爲,引大體,不拘文法。 黯爲人,性倨少禮,面折,不能容人之過。時天子方招文學儒者,上曰:「吾欲云云。」黯對曰:「陛下内多欲而外施仁義,奈何欲效唐、虞之治乎!」上默然,怒,變色而罷朝,公卿皆爲黯懼。上退,謂左右曰:「甚矣汲黯之戇也!」羣臣或數黯,黯曰:「天子置公卿輔弼之臣,寧令從諛承意,陷主於不義乎?且已在其位,縱愛身,奈辱朝廷何!」黯多病,病且滿三月;上常賜告者數,終不愈。最後病,莊助爲請告。上曰:「汲黯何如人哉?」助曰:「使黯任職居官,無以踰人;然至其輔少主,守城深堅,招之不來,麾之不去,雖自謂賁、育,亦不能奪之矣。」上曰:「然,古有社稷之臣,至如黯,近之矣。」 8. 9匈奴來請和親,天子下其議。大行王恢,燕人也,習胡事,議曰:「漢與匈奴和親,率不過數歳,即復倍約;不如勿許,興兵撃之。」韓安國曰:「匈奴遷徙鳥舉,難得而制,自上古不屬爲人。今漢行數千里與之爭利,則人馬罷乏;虜以全制其敝,此危道也。不如和親。」羣臣議者多附安國。於是上許和親。 9. 元光元年(丁未、前一三四) 1冬,十一月,初令郡國舉孝廉各一人,從董仲舒之言也。 1. 2衞尉李廣爲驍騎將軍,屯雲中;中尉程不識爲車騎將軍,屯雁門。六月,罷。廣與不識倶以邊太守將兵,有名當時。廣行無部伍、行陳,就善水草舍止,人人自便,不撃刁斗以自衞,莫府省約文書;然亦遠斥候,未嘗遇害。程不識正部曲、行伍、營陳,撃刁鬥,士吏治軍簿至明,軍不得休息;然亦未嘗遇害。不識曰:「李廣軍極簡易,然虜卒犯之,無以禁也。而其士卒亦佚樂,咸樂爲之死。我軍雖煩擾,然虜亦不得犯我。」然匈奴畏李廣之略,士卒亦多樂從李廣而苦程不識。 臣光曰:易曰:「師出以律,否臧凶。」言治衆而不用法,無不凶也。李廣之將,使人人自便。以廣之材,如此焉可也;然不可以爲法。何則?其繼者難也,況與之並時而爲將乎!夫小人之情,樂於安肆而昧於近禍,彼既以程不識爲煩擾而樂於從廣,且將仇其上而不服。然則簡易之害,非徒廣軍無以禁虜之倉卒而已也。故曰「兵事以嚴終」,爲將者,亦嚴而已矣。然則效程不識,雖無功,猶不敗;效李廣,鮮不覆亡哉! 2. 3夏,四月,赦天下。 3. 4五月,詔舉賢良、文學,上親策之。 4. 5秋,七月,癸未,日有食之。 5.